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2025年1月2日木曜日

2025年(令和7年)の幕開け

 月日は流れ、時は滞ることなく流れて、2025年を迎えた。年の瀬の30日にMonaさんが来晃。正月には家族が集まるという習慣は次第に消えて来ている。我が家もついに老夫婦だけの迎春になるところであったが、子どもたちは其々に子供たちが受験戦争に入っているため、帰省しないことに。その代わり、留学生のMonaが一人正月を免れてやってきた。おかげで、若いエネルギーに助けられて、元日を元日らしく迎え、初詣も出来た。東照宮は入り込む余地がないくらいの人出で、今年は二荒神社だけにした。孫達の無事なる進学を祈願し、家族の健康と幸運を祈るという平凡な祈りになってしまったが、干支の蛇を意識して、はて?どう解釈すべきか、見た目は気味が悪く、怖いイメージしかなかった。ところが、誰かが、蛇の象徴は『しなやかさ』と言ったことが妙に気に入り、今年の生き方の目標にと思った矢先、日経の元日の新聞にサヘル・ローズさんのインタビューの記事を見つけて更に思いを強くした。以下がその内容。ぶれないように邁進したい。

サヘル・ローズさんの2025年元旦のインタビュー記事より(日経新聞)

                          202511

 折れぬ強さ、弱さの自覚から  

しなやかに 今年の干支は蛇。(しなやかさは蛇の象徴だと誰かが言った!)

 

私の人生の強みは、自分の弱さを受け入れた事。私は決して弱者ではありませんが、みなさんと同じように弱さはあります。弱い自分を受け入れ、誰かの支えがあって今があると思えたから、強く、しなやかでいられるんです。しなやかさって、ひとりでに生まれるものではなく、相手を思いやる優しさから出てくると思います。

 

自分の価値観にかたくなになり、相手を変えようとすると、しなやかさは失われます。大切なのは、自分に普通があるように、人の数だけ生き方があり、普通があるということ。自分と違う価値観に出合った時に拒絶するのは簡単です。でもそうではなく、『こんな視点もあったのか。新たな気づきを得た』と思えば吸収することが出来ます。それが人生の枝葉となり、しなやかさになるはずです。

 私にいとって、家は愛おしい母が待ってくれている場所です。血の繋がりは無くても、一つ屋根の下で家族として迎えられます。家って生きた痕跡であり、自分と共に年を重ねていきます。家を大事にする人は、自分も大事にしているのではないでしょうか。

 人生は何が起きるかわかりません。自分の身に何があっても、帰る家さえあればどうにか生きていけます。母の為にも、帰る場所としての家を守り残していくことが私の願いです。

 1985年イラン生まれ。7歳までイランの児童養護施設で過ごし、8歳で養母とともに来日。高校生の時から芸能活動を始め、映画や舞台、俳優として活躍。また公私にわたる支援活動が評価され、2020年に米国で人権活動家賞を受賞






2024年12月23日月曜日

2024年師走に突入

 12月にはかなりイベントや友人との会合が重なり、慌ただしい中で時はどんどん経過。これが最後と半分決めつけて編集の繰り返しを続けてきた『その後の歩み』が年内に終わりそうになくて落ち着かない。せめて、手作りの一冊を仕上げたいと、最後の隙間時間を有意義に使いたいと願っているところ。その前に、今月やってきたことを整理しておきたい。

1日 初めて地元の吹奏楽団演奏会に行ってみた。来年8月を最後に、今市文化会館は閉館になるということで、この楽団のメンバーである沼尾さんがカンマーコールのメンバーでもあることから案内があったので出かけてみた。なかなか成熟した楽団で演奏は素晴らしいものだった。加えて、MCを担当した大藤美由紀さん(トロンボーン担当)の進行役振りはなかなかのもの。トランペット担当の篠原久生さんの指揮、更に団長の関昌哉氏の団の解説も分かり易く全てが、心地よい運びと演奏で感動した。40周年記念というからかなり経験も重ね円熟していることが納得できた。

4日 麗しの越中島時代の3人が銀座4丁目の星乃珈琲店に集いお喋り会を。これに先立って、前日に市川の高校生3年の孫No1の一足先に決まった大学進学確定の報に夫とお祝いを持って駆けつけ、祝杯晩餐会をやった。彼は、推薦枠で受験して東北大の宇宙工学の道に進むことに。以前からの希望がかなえられてこんなに嬉しいことは無い。その翌朝に急遽国連時代の仲間、ひろ子さんに連絡をとって白金台のご自宅を訪問。ご主人がコロナ後遺症の後遺症かもという症状が出て体調を崩されていることが気になり、彼女を元気づけたいと言う気持ちがあったことから、このタイミングに挑戦。結果的に、大変喜んでいただけて、私も勇気を出して良かったと思った。ご一緒にお寿司屋で昼食をご馳走になり、明るい表情の中でお話が出来て本当に良かった。その後、午後に越中島時代の親友に合うべく、銀座に向かったのだが、電車を間違え、しかも、居眠りしたおかげで、気が付いたら巣鴨駅に。大慌てで銀座へ引き返していったものの、約束の場所がスマホのナビでは簡単に見つからず、半分パニック状態。結局、1時間近く遅れて目的地に着くという大顰蹙をかってしまった。ごめんなさい!約2時間ほどお喋りをして、今年のおしゃべりの締めとして帰路についた。当初のクリスマスのイルミネーション見学の予定は断念。

5日 プチクールの活動としてデイサービス施設を慰問。これで2年前にプチクールを立ち上げてから3回目の慰問コンサートになる。だんだん、慣れて、今回は、カラオケの大先生、柏木見栄さん(本名星野美智子さん)が加わって、彼女のコーナーがしっかり出来たパフォーマンスが加わり、大いに盛り上がった。

8日 日光ユネスコ協会が企画した、日光世界遺産登録25周年の記念行事をニコニコ本陣で開催。朝、9時に集合。実際は午後1時からの3人によるパネル式講演会を開催。130名ほどの参加者を得て、充実した会となった。

14日 宇都宮御幸地区子ども会青少年育成協議会主催の大野紘平さんと王文強さん(変面俳優)のコラボコンサートを見に宇都宮まで出かけて来た。夫はネットでの授業があるため断念。変面芸術、踊りは初めて鑑賞。見事な業は国家秘密だそう。見事なダンスをやりながらこれまたからくりが全く分からない高級な技術での変面技には驚くばかり。中国独特の賑やかなBGと紘平さんのピアノ演奏が交互に流れる中でのパフォーマンスはユニークであった。紘平さんのクラシックをじっくりいつか聴きたいもの。

19日にはプチクールでカラオケ忘年会を。20日にはEECCで15周年を記念してプチバザーを開催。収益金は清風塾基金にプール。

21日 宇大の留学生3人(タイ、インドネシア、中国)が我が家に来訪。一泊して翌日には今シーズンオープンしたばかりのエーデルバイススキー場へ夫が引率。彼等は皆、雪は初めてという。いきなりスキーは難しかったに違いないが、皆、喜んでいた。

22日 留学生達を引率して夫はスキーに出かけたが、私は、コーラス仲間と一緒に、コーラスのピアノ伴奏者中山先生のクリスマスコンサートに宇都宮まで出かけて来た。70人程度が入れるホール(防災会館ホール)での演奏はバロック調の彫刻入りの白いピアノ(Bosendorfer)の音色はまろやかで小規模のサロンにはぴったり。くるみ割り人形シリーズは大いに楽しめた。

23日 そして本日はカンマーコールの忘年会。マスヤは以前2回ほど来ている。今年度のリーダーさん達のご活躍振りに圧倒された。来年は順番が回って私がメゾのリーダーに。何だか、憂鬱に。楽しくやりたいものだが。


2024年11月12日火曜日

2024年の紅葉は例年より10日は遅い様子

 11月10日 今までで一番大勢の参加者を得ての紅葉狩りBBQ&HC

昨年は11月5日だったと記憶しているが、あの時も紅葉は遅く、タイミングに失敗して経験から、今年は一週間弱ずらして10日に決めていた。ところが、今年は更に遅れて10日の森は新緑状態。温暖化ばかりではなさそう。今夏の並みでない酷暑に加えて雨が続いた。これが最大の原因だろう。りんごも実らないという。お土産品としていつも地元の美味しいリンゴを用意するのだが、Aリンゴ園には「名月」という青いリンゴしかなかった。「ふじ」は11月下旬からだと予測されているという。ただ、青い「名月」も甘くて味が上品。今年は赤でなく青で決めた。

ガーデンコンサートなので、キーボード、カラオケセットは野外に置くため、万が一の雨を考えてブルーシートで屋根造りも二人で準備。梯子から落ちないよう、神経を使っての作業もなかなか板についてきている。経験から要領を掴んでいる。とにかく、庭もそうだが手造りでやることに意味があると信じて、アイディア、労力、時間をかけての創作作業はもう15年以上は続いている。が、年と共に加齢は避けられないこと。慎重に最新の注意をしながらの作業なので、時間は以前よりかかるのが正直な所。しかし、大変ではあるが、面白い面もあり、楽しんでやるように心がけている。(特に庭の草刈り!)

昨日から歌姫の次女と彼女の職場での友人音楽の先生が泊りがけで来て、いろいろ手伝ってくれたというより、歌合わせ、リハーサルを行った。一昨日にはXmasさんからカラオケの機材と野外でコンサートをやる関係で、キーボードを搬入して貰って、万が一の場合はこれにたよっても良いよう、苦肉の策であった。しかし、肥田木先生はバリバリの武蔵野音大ご出身のアーチストさんであることがわかり、脱帽。学校で教えるかたわら、自分自身のキャリアを深めるためにチェンバロを学んでいるという。とても積極的で話好きの若い女性。娘とも話が弾んで、縁とはありがたいものとつくづく思う。父母娘三人でカーペンターズの「Top of the world」の合唱練習が食後に始まる。娘がリズムに乗ってphoneticも指導。頭で学んできた我々には体で覚えて来た子供達にはかなわない。素直に親が子に教えられる場面が誕生。何とか行けそう! しかし、私の心は食事メニューのこと、仕込みのことで一杯。とにかく仕込みが出来るものはやっておかなくては。ちなみにメニュー内容は・・・

スペアリブ40人分・・・BBQ現場で塩コショウ味で焼くのみ(量の確保に一苦労があった)  鶏肉もも肉・・・・・6㎏ 現役時代から慣れ親しんできた手作りつけ汁に前夜から漬け込む  ポテトサラダ・・・ポテト40個の皮むき キューり薄切りを塩で軽く揉む 薄切りハム          イカ解凍・・・・・適当な輪切り                                   フランクフルトソーセージ・・・4,50個                         マッシュルーム・・・・人数分切れ目を入れてすぐ焼けるように バター醤油で        パプリカ・・・・・・一口サイズに切っておく                       お稲荷さん90個・・すし飯ではなく、白米に自家製しその実を混ぜたライスとお揚げの用意                       焼きそば材料の用意                                   煮物 と 野菜サラダ  Fさんが当日差し入れして下さった                 果物          Yさんが当日差し入れして下さった                                    スイートお茶菓子としてレモンクッキーを数日前に5ダース焼いておいた

飲みもには、ノンアルコールのビールとペットボトル、コーヒー

その他、沢山のお菓子類を手土産にいただき使わせていただいた。量を用意するのは冷蔵庫のキャパの問題で夏場は無理であるが、この時期はありがたい。

という具合で、当日の朝は5時起床。ライスを炊き、ポテトを茹で、食材の用意多々。庭のセットアップ用意。参加者の何人かは9時半頃から来て手伝って下さったおかげでスタート時間の11時には参加者もだいたい来場。まずBBQもスタート。ただ全員が集まるのを待って集合写真も撮ることに。

案ずるより産むが安しとは良く言ったもの。いざスタートすると神さまは我々の見方をしてくれるもの。小雨でスタートしたものの、大雨にならず、結果オーライ。野外でのBBQもコンサートもしっかり予定通りに進んだ。みんな、大いに食べて、お喋りして、音楽会を楽しんで下さった様子に本当に感謝。次女の明るい対応、おもてなし振りも大助かりでありがたかった。東京からの学生15人、友人約10名、地元からの友人と宇大からの留学生達が入って総勢我々を含めて47名。3時ごろからは外も薄暗くなるばかりなので、屋内に移動。ここからは人数も少し減って屋内に収まる人数となり、ピアノを使って本格的な歌唱をやる人、歌う人あり、そのうち、学生さん達の本領が出てカラオケで大盛り上がりを見せた。学生さん達には更に6時半頃から軽食のお蕎麦を供してスープもお蕎麦も空になるまで楽しんで貰えた。

東京からの私の友人二人は其々独唱もやってくれて、場を盛り上げ江下さったのは嬉しかった。Hご夫妻も体調が難しい中、良く参加して下さって最高の慶びであった。多謝

ムナさんと由香さんにはお泊り頂いて翌日ゆっくり帰京していただいた。沢山協力していただいて感謝あるのみ。終わり良ければ全て良しである。 達成感もついてくる。




2024年10月20日日曜日

10月は季節の関係でたまっていた会合が一挙に動き出す時

 まず、5日には麻布十番富麗華中飯店で「パークアベニューで昼食を」(これはオードリー・ヘプバーンの有名な「ティファニーで昼食を」からもじって勝手に私が命名した恒例の集まり。始まりは元国連O大使夫人を囲んでご夫人だけの昼食会であったが、オランダでの勤務を終えられたO大使が国際しほう裁判所 ICJを退任されて帰国されてからはご夫妻を囲んでの恒例の昼食会になった。2023年の昨年は大使が91才になられた直後ではあったが、卒寿の祝いとして大きなバーステーケーキを用意した。一昨年はコロナの関係で会食は中止したが、皆で卒寿の祝いのメッセージをお送りした経緯がある。そして、今年は92才というご高齢になられたが、相変わらずの淀みないお話し方は健在であった。24名が集い、年ごとに大使ご夫妻への接し方が、皆、次第にゆるやかになごやかになってきていることを感じた。準皇族になられてから何となく、緊張していたようなところがあったのかもしれない。愛子様がご立派に成長されたこともある。この5月に宇都宮で5大学共催で講演をしていただいたことも私達夫婦にとっては特別なことであった。日光清風塾の塾長として夫が企画し、奔走して実現した大イベントである。そして翌日には我が家においでいただき、地元の仲間20人ぐらいが集って、五月日和に恵まれた最高の条件下で午後の一時をすごしていただいたのである。東京の多忙な環境を忘れて、ほんの一時を自然に恵まれた環境で憩っていただいて本当に良かったと思う。私達の人生のハイライトとも言えるイベントであった。

そして10日後の15日には、「41(良い)同期夫人会」が銀座の老舗和食店で開催された。これは私も幹事役の1人としてもう一人の幹事役N夫人と連絡を取りながら実現したものであるが、彼女の質の高い人脈のおかげで、銀座加賀谷に決まった経緯がある。能登半島地震と洪水により、和倉温泉加賀谷が大打撃を受け、しばらく休業となっているが、その救援チャリティーを兼ねた食事会となった。九谷焼の素晴らしい器に盛られた日本料理が器の絵の中に溶け込んだようなまさに芸術作品を目の前に鑑賞してから消化するという、今まで経験したことも無いような食事会であった。出席者は9名で、だんだん参加人数が減ってきているのが気になるところである。話題も、やはり、健康の話が多くなる。面白かったのはスマホをもちながらも、皆さん余り使いこなしていない中で、ライン接続を提案し、グループチャットが開設出来た事である。場所を代えてコーヒーをいただきながら試行錯誤で達成出来た時は皆ハピーであった。年寄りでもやれば出来るという発見があったこと。私はこんな所で仲間の役に立てたことが一寸嬉しかった。

明日は今市文化会館での文化祭に私達petit choeurの出番がある。一曲だけ歌うことになている。「いつかこの海を越えて」 歌詞の確認をしておこう!





2024年9月29日日曜日

東京への珍(沈)道中気 

 先日9月14日に孫No2のグラホの高校最後の試合を見に東京まで出かけたことは既に書いたが、その時の東京行きの大失態がいつまでも頭に残る。それを面白い想い出とする為に「珍道中記」として書き残すことにした。するとそれを読んでくれた小五の孫No4の妹が感想を発信してくれた。孫とこういう交信が出来たのは初めてである。彼女の感想も付記しておこう。

珍道中でも沈道中となったこの日のことは忘れないよう書いておこう。(925日記)

 2024914日(土) 翌日の15日に孫No2の星太の高校最後のグランドホッケー(グラホ)西東京大会が駒場第一球技場であるという。その応援に行く目的で町田へ。夫は「オッペンハイマー」が新宿の映画館で本日が最後の放映ということで、そちらへ向かうというので東京まで一緒に出かけた。

 「遊びに出かけるので、特急を止めてローカルで北千住へ。9月より無料だった市営駐車場が有料になったこともあり、時間を考えた挙句に1309発南栗橋行きに乗車。眼の保養にと外の景色をぼんやり眺め、持参する物の確認、予定の見直し、やるべきこと等々いろいろな事が頭の中を駆け巡っていた時、突然、思い出してしまったことが。出発前に思い付いて家の掃除をしたことがいけなかった。二階の窓を全部開けっ放しにしていたことを思い出したのだ。電車は間もなく栃木駅に着こうとしていた時だった。

「いやー!どうしよう?!閉め忘れて来てしまった!」と叫ぶ私に、「また、始まった。もういいよ!」と呆れる夫。「不用心だよ!」と私。結局私は栃木駅で下車して折り返し帰ることにした。孫No4の明里ちゃんへのプレゼントにと大事に持参した世界地図、各国の挨拶言葉とナショナルコスチュームのイラスト付きの特別な大きな地図であるが、それはしっかり丸めて握ったまま電車を降りて、ホームの反対側へ。間もなくローカル線が来たが、その後に特急電車が一台来る。節約して東京へはローカル線に乗ったものの、思いがけない失態に引き返しは特急に乗り込む始末。すかさず車掌がやってきたので、栃木から下今市までの特急券を購入。車中での購入は200円増しで1,150円。更に栃木からの乗車券610円も支払うことに。結局下今市から東京までの特急券を買ったのと同じになったが、その時はそんなことは言っておれない。早く戻らないと、町田に到着するのが遅くなってしまう。慌てる時は次々と失敗が続くものだと納得しながら落ち着いて行動をとったつもりが、落とし穴がもう一つあった。下今市駅に着く寸前にあの大事に抱えていた筈の世界地図が見当たらない。降り口で気づいて、大急ぎで座っていた座席に駆け込んだが、何も無い。もしかしたら、栃木駅で電車を待っていた時に座ったフォームの椅子に置き忘れたのかも知れない。あきらめて下今市駅に降りた。駅のスタッフに、引き返した事情を話し、忘れ物(地図)の申告もしておいた。同情してくれたのか、最初の東京行きの乗車券はもう一度使うことを許された。気の毒に思ってくれたのだろう。これは特別扱いだとの事。情けに心底感謝した。

大急ぎで市営駐車場に行って駐車券を入れたら丁度ぎりぎり2時間の駐車で無料(最初の2時間は無料)。ささいなことながら、不運な事態に一条の光を見た思いとなる。家に戻ると二階の窓は堂々と開いたまま。猿軍団がやってくる前でホッと一息つく。しっかり戸締りを点検して再度車を飛ばす。今度は駅に隣接した東武の駐車場が一台分だけ空いていたので迷わずそこに駐車した。そして、今度はこれも迷わず北千住まで特急で。目的地には予定より2時間遅れで到着した。事の一部始終を聞いてくれた娘曰く、「お母さん、良く説明できました。何が道中で起きたのか、良く理解出来たよ。実は娘の送り迎えなど、一番忙しい時間帯だった時なので、かえって遅く到着してくれて好都合でした」と。私が、子供のように、興奮して失敗談を息せききって親に話す子供に見えたのかもしれない。

 実は、最初に夫と東京へ向かう電車の中で、持参していた世界地図には素晴らしい文言が掲載されているのを発見し、それを手書きで手帳に書き写していたのである。虫の知らせか、Uターン騒動でどこかへ置き忘れてしまった地図は結局失ってしまったが、この文言は手元に残った。この騒動の代償としていつまでも記憶に残しておきたく、ここにそれを記載しておくことにした。作者は誰か不明。」

 日本だけが 国なのではない

日本人だけが 生きているのではない

世界には さまざまな人が 生きている

肌の色 瞳の色 髪の色 言葉 食べ物

信じるもの が みんなちがう

でも みんな きっと 嬉しくて笑い 悲しくて泣く

みんな きっと 同じようなことで 喜び

みんな きっと 同じようなことで 悲しむはずだ

 

そして 生きているのは 人だけではない

動物 鳥 魚 虫 草 木 花 菌

ウイルスも 生きている

海が 生きている 山が 生きている

川も 土も 石も

地球そのものが 生きている

みんな ちがう すがたの中に

みんな 同じ 命が生きている

命が 生きようとしている

 

眼を閉じて 耳を澄ませば 命の声が 聞こえる

ことばにならない「こんにちは」「ありがとう」が 聞こえる

世界は「こんにちは」「ありがとう」で 満ち溢れている

今日も 世界中で あいさつがかわされる

地球の上の 命が あいさつをかましている

あいさつのことばが 人を傷つけることはない

あいさつは 目の前の 閉ざされた扇を あける

笑顔のあいさつは 戦争も テロも いじめも 差別も

産まない

でも 世界中から 戦争や テロや いじめや 差別が

消えたとしても

飢えも 貧困も 病気も 災害も

事件や 事故さえ 地上からなくなってしまったとしても

涙の止まらない夜 一人ぼっちの夜は 必ずやってくる

そんなときも 夜が明けたら あいさつをしよう

たとえ まわりに 誰もいなくても

自分の命に 自分の中で 生きようとしている命に

「こんにちは」「ありがとう」を

 

あいさつは 東の空の朝の光 西の空のオレンジ色の夕焼け

あいさつは 春の日のそよ風 夏の日の木陰

あいさつは 秋の日の澄んだ空 冬の日の陽だまり

あいさつは 朝の希望 昼のいたわり 夜の感謝

笑顔のあいさつからは

戦争も テロも いじめも 差別も

生まれない (生まれるのは 命へのいたわりだ)

 

メールと詩を送って頂き、

ありがとうございます😆

兄の試合観戦に行く途中、

お疲れ様でした🏑🏟

この詩では、価値観の違いなど、世界のさまざまなことを考えさせられました。

今は塾で公民(日本国憲法)をしていますが、

「第14条 法の下の平等」が1番当てはまるなぁと思いました。

この憲法は戦後すぐに作られたのに、最近はウクライナ侵攻やガザ地区など、思えば昔の人の方が頭が良かったような気もしてきました。

この間、こんな言葉を聞きました。

「世界の人たちみんなが思いやりを持っていれば、戦争なんか起こらないのに。」

子供の私には、何もできませんが、明るい未来が迎えられますように。🌏🤲

 

長話に付き合って頂き、

ありがとうございます。(ありがとう) See you again   明里より


2024年9月18日水曜日

孫No2の高校最後の試合

 孫No2の星太の私の勝手な呼び名はお星さま。妹明里(孫No4)の私流内心の呼び名はお里ちゃん。つまり長女の二人の孫たちには父親がセミプロ的山登り愛好家であることに起因して宇宙大地の広大なイメージが捧げられている。それに応えるかのように星太は小学5年の時に百名さんを踏破、当然ながら妹もその三分の一ぐらいは登っている。その彼ははや高三となり、部活では初めてのグラホと通称されているグランドホッケー、つまりフィールドホッケー部で三年頑張り続けた。先般、東京チームに加わって山梨で開催された関東大会に出場。一回戦では勝ったものの、二回戦で強豪栃木県の地元今市チームに負けた。良い経験を得たようだった。

9月14,15日

今回は西東京の最期の試合だったらしく、優勝決定戦で早稲田に1対3で負けた。その前日の準決勝戦を応援するため、日光からわざわざ前日に町田まで出かけ、娘の所に一泊。娘夫婦、お婿さんの父親も一緒に4人でわざわざ駒場第一競技場へ。車だから行けた。敬老の日の前日の15日だった。婿の父親も持病があり、92歳という高齢にもかかわらず、もともと体育会系の人の血が騒ぎ、酷暑を覚悟での決行であった。

10時に家を出て、1時間後に到着。11時半スタート。本来ならお赤飯をいただいてゆっくり、敬老の日を過ごすところが、若い父兄に交じって、ワイワイ賑やかに応援する様は珍しかったかも。その効果ありで、何と15対0という前代未聞の大差で圧勝。相手チーム(学芸大附属)には申し訳なかったがスポーツは結果を出さなくてはならない宿命にある。応援の成果を得て、その日の夕方に日光に戻った。(夫は別用で東京に)

私も実年齢から言えば孫達のイベントに出かけて行くのもそろそろ終盤にさしかかる頃だが、まだまだそれを実感しないでいる。まだ来春中学生に上がる三人の孫と5年生になる孫がいる。更に、次女の所には来年は小2年生になる里子ちゃんがいる。みんな社会人になるまで一緒に喜怒哀楽をシェアしたいもの。

(注)今回の東京行きは私の落ち度から奇異な旅となったことが忘れられない。いろいろハプニングが続いて、失敗が失敗を呼び、結果、無事、落ち着くところの落ち着いたが、もう、二度と経験はしたくない。クワバラクワバラ!

2024年8月28日水曜日

酷暑、猛烈の暑さが続いた8月

8月28日 

酷暑の候にパリオリンピックが終わり、又別の感動を与えてくれた全国高校野球が終わり、更に全英女子オープンゴルフがバトンを繋ぎ、8月は汗をたらしながら、でも、エアコンのお陰でスポーツ観戦三昧で過ごした。Tokyo 2020に続いてParis 2024でもメディア領域でスタフとして参加したムナさんがパリオリンピック後、私の旧友茂子さんにパリで合ってくれた。そして、アムステルダムまで赴いて夫のフレッチャー時代の旧友にも合ってくれた。我々に代わって(on our behalf)彼女はやりくりをして見事にミッションを果たしてくれた。その彼女が帰国したのが8月20日(21日?)。

ムナさんと茂子さんからのお土産
そして23日夕刻、前日に病院のアポで上京していた夫と我が家に帰ってきた。元気そう!約1か月のヨーロッパ滞在だった彼女は初めての経験を存分に見て感じてきたよう。パリの街並みはやはり美しいと。しかし、町中のパリ人は英語が話せなくて苦労したという。仕事仲間は国際色豊かで英語の世界。5人ぐらいのチームで彼女はメディアの幹線ともいうべき通信ラインの設置のテクニシャンとして働いた様子。表に出るキャストは性に合わないらしい。言われたことをそのまま発信するのは好まず、自分の独自性というか、創造性を活かす方が好きらしい。この仕事も自分でオプションから選んだらしい。4年後のロスオリンピックの時も参加の可能性を持っているらしい。実に挑戦意欲を持ち、何でも見てやろうと言う意気込みが感じられる。


今週末に本土上陸予想の台風10号に備えて、森の奥の小川の氾濫を食い止めるべく防波堤を築いたり、魚の捕獲目的でダムを造ったりで、昨日は3人で汗びっしょりになりながら奮闘した。夫の執念にはいつも圧倒される。この年になっても萎えない意気込みはいつまで続くのだろうか。