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2024年9月29日日曜日

東京への珍(沈)道中気 

 先日9月14日に孫No2のグラホの高校最後の試合を見に東京まで出かけたことは既に書いたが、その時の東京行きの大失態がいつまでも頭に残る。それを面白い想い出とする為に「珍道中記」として書き残すことにした。するとそれを読んでくれた小五の孫No4の妹が感想を発信してくれた。孫とこういう交信が出来たのは初めてである。彼女の感想も付記しておこう。

珍道中でも沈道中となったこの日のことは忘れないよう書いておこう。(925日記)

 2024914日(土) 翌日の15日に孫No2の星太の高校最後のグランドホッケー(グラホ)西東京大会が駒場第一球技場であるという。その応援に行く目的で町田へ。夫は「オッペンハイマー」が新宿の映画館で本日が最後の放映ということで、そちらへ向かうというので東京まで一緒に出かけた。

 「遊びに出かけるので、特急を止めてローカルで北千住へ。9月より無料だった市営駐車場が有料になったこともあり、時間を考えた挙句に1309発南栗橋行きに乗車。眼の保養にと外の景色をぼんやり眺め、持参する物の確認、予定の見直し、やるべきこと等々いろいろな事が頭の中を駆け巡っていた時、突然、思い出してしまったことが。出発前に思い付いて家の掃除をしたことがいけなかった。二階の窓を全部開けっ放しにしていたことを思い出したのだ。電車は間もなく栃木駅に着こうとしていた時だった。

「いやー!どうしよう?!閉め忘れて来てしまった!」と叫ぶ私に、「また、始まった。もういいよ!」と呆れる夫。「不用心だよ!」と私。結局私は栃木駅で下車して折り返し帰ることにした。孫No4の明里ちゃんへのプレゼントにと大事に持参した世界地図、各国の挨拶言葉とナショナルコスチュームのイラスト付きの特別な大きな地図であるが、それはしっかり丸めて握ったまま電車を降りて、ホームの反対側へ。間もなくローカル線が来たが、その後に特急電車が一台来る。節約して東京へはローカル線に乗ったものの、思いがけない失態に引き返しは特急に乗り込む始末。すかさず車掌がやってきたので、栃木から下今市までの特急券を購入。車中での購入は200円増しで1,150円。更に栃木からの乗車券610円も支払うことに。結局下今市から東京までの特急券を買ったのと同じになったが、その時はそんなことは言っておれない。早く戻らないと、町田に到着するのが遅くなってしまう。慌てる時は次々と失敗が続くものだと納得しながら落ち着いて行動をとったつもりが、落とし穴がもう一つあった。下今市駅に着く寸前にあの大事に抱えていた筈の世界地図が見当たらない。降り口で気づいて、大急ぎで座っていた座席に駆け込んだが、何も無い。もしかしたら、栃木駅で電車を待っていた時に座ったフォームの椅子に置き忘れたのかも知れない。あきらめて下今市駅に降りた。駅のスタッフに、引き返した事情を話し、忘れ物(地図)の申告もしておいた。同情してくれたのか、最初の東京行きの乗車券はもう一度使うことを許された。気の毒に思ってくれたのだろう。これは特別扱いだとの事。情けに心底感謝した。

大急ぎで市営駐車場に行って駐車券を入れたら丁度ぎりぎり2時間の駐車で無料(最初の2時間は無料)。ささいなことながら、不運な事態に一条の光を見た思いとなる。家に戻ると二階の窓は堂々と開いたまま。猿軍団がやってくる前でホッと一息つく。しっかり戸締りを点検して再度車を飛ばす。今度は駅に隣接した東武の駐車場が一台分だけ空いていたので迷わずそこに駐車した。そして、今度はこれも迷わず北千住まで特急で。目的地には予定より2時間遅れで到着した。事の一部始終を聞いてくれた娘曰く、「お母さん、良く説明できました。何が道中で起きたのか、良く理解出来たよ。実は娘の送り迎えなど、一番忙しい時間帯だった時なので、かえって遅く到着してくれて好都合でした」と。私が、子供のように、興奮して失敗談を息せききって親に話す子供に見えたのかもしれない。

 実は、最初に夫と東京へ向かう電車の中で、持参していた世界地図には素晴らしい文言が掲載されているのを発見し、それを手書きで手帳に書き写していたのである。虫の知らせか、Uターン騒動でどこかへ置き忘れてしまった地図は結局失ってしまったが、この文言は手元に残った。この騒動の代償としていつまでも記憶に残しておきたく、ここにそれを記載しておくことにした。作者は誰か不明。」

 日本だけが 国なのではない

日本人だけが 生きているのではない

世界には さまざまな人が 生きている

肌の色 瞳の色 髪の色 言葉 食べ物

信じるもの が みんなちがう

でも みんな きっと 嬉しくて笑い 悲しくて泣く

みんな きっと 同じようなことで 喜び

みんな きっと 同じようなことで 悲しむはずだ

 

そして 生きているのは 人だけではない

動物 鳥 魚 虫 草 木 花 菌

ウイルスも 生きている

海が 生きている 山が 生きている

川も 土も 石も

地球そのものが 生きている

みんな ちがう すがたの中に

みんな 同じ 命が生きている

命が 生きようとしている

 

眼を閉じて 耳を澄ませば 命の声が 聞こえる

ことばにならない「こんにちは」「ありがとう」が 聞こえる

世界は「こんにちは」「ありがとう」で 満ち溢れている

今日も 世界中で あいさつがかわされる

地球の上の 命が あいさつをかましている

あいさつのことばが 人を傷つけることはない

あいさつは 目の前の 閉ざされた扇を あける

笑顔のあいさつは 戦争も テロも いじめも 差別も

産まない

でも 世界中から 戦争や テロや いじめや 差別が

消えたとしても

飢えも 貧困も 病気も 災害も

事件や 事故さえ 地上からなくなってしまったとしても

涙の止まらない夜 一人ぼっちの夜は 必ずやってくる

そんなときも 夜が明けたら あいさつをしよう

たとえ まわりに 誰もいなくても

自分の命に 自分の中で 生きようとしている命に

「こんにちは」「ありがとう」を

 

あいさつは 東の空の朝の光 西の空のオレンジ色の夕焼け

あいさつは 春の日のそよ風 夏の日の木陰

あいさつは 秋の日の澄んだ空 冬の日の陽だまり

あいさつは 朝の希望 昼のいたわり 夜の感謝

笑顔のあいさつからは

戦争も テロも いじめも 差別も

生まれない (生まれるのは 命へのいたわりだ)

 

メールと詩を送って頂き、

ありがとうございます😆

兄の試合観戦に行く途中、

お疲れ様でした🏑🏟

この詩では、価値観の違いなど、世界のさまざまなことを考えさせられました。

今は塾で公民(日本国憲法)をしていますが、

「第14条 法の下の平等」が1番当てはまるなぁと思いました。

この憲法は戦後すぐに作られたのに、最近はウクライナ侵攻やガザ地区など、思えば昔の人の方が頭が良かったような気もしてきました。

この間、こんな言葉を聞きました。

「世界の人たちみんなが思いやりを持っていれば、戦争なんか起こらないのに。」

子供の私には、何もできませんが、明るい未来が迎えられますように。🌏🤲

 

長話に付き合って頂き、

ありがとうございます。(ありがとう) See you again   明里より


2024年9月18日水曜日

孫No2の高校最後の試合

 孫No2の星太の私の勝手な呼び名はお星さま。妹明里(孫No4)の私流内心の呼び名はお里ちゃん。つまり長女の二人の孫たちには父親がセミプロ的山登り愛好家であることに起因して宇宙大地の広大なイメージが捧げられている。それに応えるかのように星太は小学5年の時に百名さんを踏破、当然ながら妹もその三分の一ぐらいは登っている。その彼ははや高三となり、部活では初めてのグラホと通称されているグランドホッケー、つまりフィールドホッケー部で三年頑張り続けた。先般、東京チームに加わって山梨で開催された関東大会に出場。一回戦では勝ったものの、二回戦で強豪栃木県の地元今市チームに負けた。良い経験を得たようだった。

9月14,15日

今回は西東京の最期の試合だったらしく、優勝決定戦で早稲田に1対3で負けた。その前日の準決勝戦を応援するため、日光からわざわざ前日に町田まで出かけ、娘の所に一泊。娘夫婦、お婿さんの父親も一緒に4人でわざわざ駒場第一競技場へ。車だから行けた。敬老の日の前日の15日だった。婿の父親も持病があり、92歳という高齢にもかかわらず、もともと体育会系の人の血が騒ぎ、酷暑を覚悟での決行であった。

10時に家を出て、1時間後に到着。11時半スタート。本来ならお赤飯をいただいてゆっくり、敬老の日を過ごすところが、若い父兄に交じって、ワイワイ賑やかに応援する様は珍しかったかも。その効果ありで、何と15対0という前代未聞の大差で圧勝。相手チーム(学芸大附属)には申し訳なかったがスポーツは結果を出さなくてはならない宿命にある。応援の成果を得て、その日の夕方に日光に戻った。(夫は別用で東京に)

私も実年齢から言えば孫達のイベントに出かけて行くのもそろそろ終盤にさしかかる頃だが、まだまだそれを実感しないでいる。まだ来春中学生に上がる三人の孫と5年生になる孫がいる。更に、次女の所には来年は小2年生になる里子ちゃんがいる。みんな社会人になるまで一緒に喜怒哀楽をシェアしたいもの。

(注)今回の東京行きは私の落ち度から奇異な旅となったことが忘れられない。いろいろハプニングが続いて、失敗が失敗を呼び、結果、無事、落ち着くところの落ち着いたが、もう、二度と経験はしたくない。クワバラクワバラ!

2024年8月28日水曜日

酷暑、猛烈の暑さが続いた8月

8月28日 

酷暑の候にパリオリンピックが終わり、又別の感動を与えてくれた全国高校野球が終わり、更に全英女子オープンゴルフがバトンを繋ぎ、8月は汗をたらしながら、でも、エアコンのお陰でスポーツ観戦三昧で過ごした。Tokyo 2020に続いてParis 2024でもメディア領域でスタフとして参加したムナさんがパリオリンピック後、私の旧友茂子さんにパリで合ってくれた。そして、アムステルダムまで赴いて夫のフレッチャー時代の旧友にも合ってくれた。我々に代わって(on our behalf)彼女はやりくりをして見事にミッションを果たしてくれた。その彼女が帰国したのが8月20日(21日?)。

ムナさんと茂子さんからのお土産
そして23日夕刻、前日に病院のアポで上京していた夫と我が家に帰ってきた。元気そう!約1か月のヨーロッパ滞在だった彼女は初めての経験を存分に見て感じてきたよう。パリの街並みはやはり美しいと。しかし、町中のパリ人は英語が話せなくて苦労したという。仕事仲間は国際色豊かで英語の世界。5人ぐらいのチームで彼女はメディアの幹線ともいうべき通信ラインの設置のテクニシャンとして働いた様子。表に出るキャストは性に合わないらしい。言われたことをそのまま発信するのは好まず、自分の独自性というか、創造性を活かす方が好きらしい。この仕事も自分でオプションから選んだらしい。4年後のロスオリンピックの時も参加の可能性を持っているらしい。実に挑戦意欲を持ち、何でも見てやろうと言う意気込みが感じられる。


今週末に本土上陸予想の台風10号に備えて、森の奥の小川の氾濫を食い止めるべく防波堤を築いたり、魚の捕獲目的でダムを造ったりで、昨日は3人で汗びっしょりになりながら奮闘した。夫の執念にはいつも圧倒される。この年になっても萎えない意気込みはいつまで続くのだろうか。

パリオリンピックがスタート

 7月27日パリオリンピックがスタート。開会式がセーヌ川で行われるというおとぎ話のような構想に誰もが興味津々でこの日を待っていたのではないだろうか。当事者のみぞ知るこの構想に開会式の生放送を観て、誰もが驚いたに違いない。どこでリハーサルをしたのかも定かではない。アーチストは誰かとか、演出したのは誰だとか、謎の多い開会式だったが、予想を超えた信じられないようなプロダクション、パフォーマンスで驚嘆した。フランス人らしいセンスとイマジネーション、アーチスティックパフォーマンス、フランスの文化を全部世界に向けて発信したような凄さであった。セーヌ河に各国のバトーが次々と現れる前にまず、開会式が行われたトロカデロ広場が映し出され、センスの良いライトが踊る中にエッフェル塔が姿を現し、チュイルリー広場からふわりと浮かび出たバルーンが聖火台となって聖火が点火された。パリ市街の歴史的建造物がそれぞれの役割を表して浮かびだされる。コンシエルジュリーからマリーアントワネットの肖像画が飛び出してセーヌ川に浮かぶ。奇想天外でもあり、なるほどと思わせる仕掛けありで、録画セットをしていたにもかかわらずライブ放送は最後まで見てしまった。

その後の競技については日本勢が大活躍、特に若い、初出場のアスリート達が続々登場。レスリング界の活躍は凄かった。柔道はフランスにお株を取られた形。卓球は想像通り。陸上は今までより記録的には上昇気流に。水泳界は期待され過ぎた嫌いは あっぱれあるかも。ただ、男子飛び込みが凄かった。メダル数は総合では45個、金20個、銀12個、銅13で米国、中国、の次に位置に来て3位は素晴らしい。オリンピックとなるとどうしてもナショナリスティックになってしまうのは致し方無いこと。アスリート達の頑張りがそのまま伝わって来て感動してしまう。男子ゴルフでは松山選手が優勝を寸前にして、しかも、最後は、2位、3位?という瀬戸際に立つ大試合をやってのけて興奮は最高に達した。結果的に彼は銅を手中にした。あっぱれである。女子も山下が優勝を目の前にしながら、結果的には4位Tに終わり、これは悔しさが残った試合であった。この2週間は本当に緊張と感動の連続であった。感動をありがとうと言うしかない。



8月24日(土)本来なら日光清風塾が企画した「グランピングの夕べ」が実施される日であるが、諸事情により、来年にキャリーオンすることになり、既にアプライ済みの米国人Kurunichさんを我が家にお招きすることになり、本日3歳のVeda, 10歳のNovakとEdrienne,Robert夫妻がタクシーで我が家に到着したのが11時半。お天気次第ではあったが、小さな子供連れということで庭でランチをする予定であったが、余りの暑さに結局室内でランチをすることに。ムナさが居てくれたことは大助かり。サウンドミュージックに出てくるようなあのいたづらっぽい顔でジュリーアンドリュースに怪我した小指を見せる一番のちびちゃンにそっくりのVidaはとても可愛かった。歩く人形のよう。最初は斜にかまえていた彼女はやはり子供。だんだん騒々しくなっていったことも可愛かった。夫妻は夫婦でパイロットだという。aviationの世界で知り合った二人。Edrienneはミズリー出身、Robertはもともとセルビア人。彼の方は声楽もやり、大学に入る時点で、音楽の道と航空学の道と選択に迷った時期もあったそう。今では音楽は趣味。しかし、我が家のピアノを見て、弾き始め、帰れソレントを歌い始めた。さすがである。一週間前に日本に子供たちを連れて来たばかり。夫人の方は7月に既に来日していて神奈川で日本語研修をやり、今回ご主人が合流して東京に住まいを定めた。あと一年日本に滞在するそうだ。日本語は夫人の方は一年前からアメリカで始めた由で、基本的なコミュニケーションは取れる様子。なかなか活発そうな女性と見た。日本滞在中に再会出来そう。(夫が11月10日のHCを誘っていた。)

2024年7月31日水曜日

激暑の夏

 7月31日(水)

今年の梅雨期は関東地方は6月21日に入梅し、2週間ほどで梅雨明けとなったものの豪雨があちこちで続き、酷暑の中での災害が多発。線状降水帯という現象が頻繁に起き、日本全土が猛烈な温暖化現象に見舞われている。35℃以上が続き、熱中症による犠牲者も沢山出ている状態。今年は孫達もそれぞれ来年は大学と中学に進学する年齢になり、夏休みは受験勉強が忙しくなって祖父母の所に来る時間も無さそう。10歳ですでにこの競争社会に突入し、昔のような子供たちが真っ黒になて夏休みを過ごすという時代は消滅してしまった。

Volunteer group of international interactionとしての日光清風塾が企画していた「Glamping festival in Nikko」は企画の発想は一年前からあったものの、実際に動き出したのが遅かったため、欧米人の参加者人数が目標に達せず、今年は中止とすることに。構想は理事会、実行委員会で検討してきたので、来年はスタートを早くして実行出来るようにしたいもの。7月28日に現場となるTorchに関係者がミーティングをしてこの決断にいたった。

今日は、KDDIさんに質問したことから、これまで投稿の編集に落ち度があったことを発見出来たことは大きな収穫であった。つまり写真を投稿するとお化け文字となって画像は出ず、文字もいつもとは違うはっきりしたものではなかった。編集作業のメニューに注目しなかたことが原因とわかった。これで又ブログが息を吹き返すことが出来るようになったことは明るいニュースである。

2024年6月6日木曜日

6月3日(月)

2024年6月3日(月) 五楽会(夫の大学同期会)の恒例の集まりが今年は浅草の屋台船で開催されたので、大胆にも参加させていただいた。屋台船なるものに乗ったことが無かったので、良い機会と捉えて便乗させていただいた次第。 夕方6時~8時半までの2時間半、墨田川を浅草吾妻橋から出向して、お台場で滞船するコースであるが、」途中の高層マンション風景や、フジテレビのあの有名な建物、レインボーブリッジを眺めながらの悠長な一寸した船の旅。総勢15人が参加していて、彼らは乗船するとすぐ飲み会が始まる。 遠くは熊本や広島から来た人もいるが、80歳が一番若くて、皆、それ以上。大病を乗り越えて、以前の飲食に戻っている人、現在は介護を受けている身と言う人もいたが、それなりに元気で、こうした集まりには何とか出かけて参加していること自体、素晴らしいと思った。昔の学生時代に戻って、平等に忌憚なく話し合えるのが魅力であろう。それぞれ、それこそサンセットブルバードを出来るだけ元気に、おおらかに歩んでいる姿が見えて、May we keep going on and on! 「琵琶湖周航の歌」を二度も斉唱して士気を高め、そぼふる雨の中、墨田川就航は無事実現出来た。飲物は飲み放題で皆満足だったのではないだろうか。食事は期待していた揚げたて天ぷらはもう一つであった。 私は時間的に間に合ったので、一人で日光へ戻ったが、夫は翌日も彼らと昼食会(一水会と称して、東京近辺在住の同期生の月例会であるが、今回は五楽会と重なって、合同での昼食会となり、浅草のどじょうを食べる由)があるため、多摩へ。今回、来たくてもパートナーの介護で離れられないという人もいて、我々がそういう年齢になってきていることをつくづく思い知らされる機会でもあった。

5月11日、12日(母の日)

この日は、我々にとって人生最大の経験を得た忘れられない日となる。夫が現役時代、在外では二度もご薫陶をいただいた10年大先輩の小和田大使に、5月11日、宇都宮共和大学で学生を対象にした特別講演をやっていただくことが出来たのである。「冷戦後の世界と日本」というテーマで響きは固いが、1時間半の講演を休憩なしで、淀みなく、言葉をかみしめて丁寧に優しく語られて、聴衆は集中して聴いていた。かねてからの夫の願望であり、思い切ってアクションをとった結果、栃木県下の五つの大学の共催を得て、日光清風塾が事務局となり実現した大プロジェクトである。夫の行動力に改めて感じ入りながらも、サポート役としてどこまで意にかなうか、一連の流れの中で、途方に暮れることもしばしばだったが、同じ方向を向いていれば、時間が解決してくれることも分かった。一人では出来ないことを、いかに同志を得て協力をしてもらえるかが全ての鍵である。リーダーシップとは何か。ぶれない目標に熱意を持って挑む姿にどれだけ共感し、理解できるかどうかである。説得力もあるが、何より、誠実さと目標に挑む熱意がリーダーシップの強さを決めるのだと思う。いろいろ大変な思いもしたが、良い結果が出て本当に安堵した。 翌日はハンブルだが、豊かな新緑に囲まれた我が家にご夫妻でおいでいただくことも出来たことは最高の慶びであった。この11日と12日だけが前後の雨の日に挟まれて、新緑薫る最高の五月晴れに恵まれたことにも大感謝である。多忙な東京暮らしを半日ほど忘れていただき、少しでも、田舎の、きれいな空気をエンジョイしていただきたいという我々の願望が実った日となった。プチクール(小さな我々の合唱隊)の仲間にもランチに加わっていただき、合唱を披露したり、盆点のお抹茶を東京からの友人にやっていただいて、くつろいでいただいたり、20年近くかけて手掛けた手造りのワイルドな庭を一寸だけ散策したり、我々のおもてなしを素直に、親しく喜んで受けて下さったご夫妻に、我々一同も感激であった。ご高齢ということも忘れて、あれやこれや、おもてなしのつもりが、一寸ご無理を強要させたかもという懸念もあったが、最後に日光駅でお見送りした時は、本当に喜んでいただけた様子に、涙ぐむほどに感激した。握手から、抱擁、さらに頬ずりまでして、それこそ夢心地であった。「竜宮城に居たみたい」と印象をおっしゃっていただいたことが何かにつけ、今でも胸をよぎる。