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2012年2月29日水曜日

三毛子 ② 雪景色の日に綴る

予報通り朝目覚めたら雪がコンコンと降っていた。この降り方だと、一時的ではなさそう。我が家からの借景は見事で見とれるほどだが、現実に戻ると、今日予定していたことが出来ないのではないかと危ぶまれる。案の定、義姉達とお見舞いに病院に行くのを延期することになってしまった。夫は都心からの友人達と山へ滑りに出かけた。静かな一日を今日は自分の書き物で過ごすことにしよう。
愛猫が綴った自分史をブログに載せることにして一週間が経つ。今回はその第2回目。第一章に入る。

三毛子の書いた自分史   目次
                  
はじめに   

近影 ミカンの入っていたネットをスカーフに。

第1章 多摩市で運命のスタート(1992~1993) 
第2章 ニューヨークへ(1993~1996)
第3章 帰国して多摩での一人暮らし(1996~1999)
第4章 飼い主との生活再び(1999~2001)
第5章 大阪暮らし(2001~2003)
第6章 第6章 多摩の家での二年(2003~2005)
第7章 第7章 日光に移住(2005~    )

             
あとがき

第一章 多摩市で運命のスタート(1992~1993)

 当時の多摩丘陵地は二十年前に都市開発が盛大に行われて公団住宅が立ち並び、若い人達がベッドタウンと称して移り住み、活気がみなぎっていた。当然、学童の数も多く、日本の未来は健全と思われていた。バブル経済がピークに達して、そろそろ限界が見え始めた頃、わたしは四人兄妹といっても四つ子の一人として、多摩市諏訪の団地に住むあるお宅で生を受けた。1992年四月二十二日がわたしの誕生日である。そのお宅は二人の子供とその両親の四人家族がいたが、狭い団地住まいなのに、なぜか猫を可愛がり、わたしの家族、つまり、わたしの両親と四つ子の兄妹も一緒に面倒を見てくれていた。大家族となっていた。

 生まれて一か月が過ぎたころ、近隣の団地に住む中年の夫婦がこの家にやってきた。駅ビルのスーパーで広告を見てやって来たという。
「猫を可愛がって下さる方、子猫を差し上げます。」という小さな広告を出していたのだ。わたしたち生まれたての兄妹は、はしゃぐこともおびえることも知らず、箱の中でキーキー泣きながらうろうろしていた。わたしの両親と他の兄妹はみんな真っ白で洋風のにおいがして足も長かったが、なぜか、わたしだけが三毛で和風であり、足も短かった。突然変異というやつかも知れない。

 「白はそのうち疲れる」とその訪問客の男性が言った。不可解なことを言うと思ったが、多分、同じ色より色に変化があった方が自然で、緊張しなくていいということなのだろう。
 「この三毛ちゃんは目がグリーンじゃないの?一寸洋風な感じもするし、美人顔よね。」と今度は連れの女性が言った。
 迷うことなくすんなりとわたしが取り上げられた。なにがどうなtっているのかもわあらないまま、わたしはそのまま、その男性のジャケットの内側に抱かれて生家を去ることになった。
                      (次回につづく)


2012年2月22日水曜日

三毛子


はじめまして。三毛子と申します。


 私の愛猫三毛子嬢を紹介します。というより、彼女に自分史を書かせてみるのも面白いかもしれないとの思いつきで、本来のブログの合い間合い間に一寸挿入して行こうと思います。どこまで行けるか心もとない試みではあります。


はじめに

 わたしはあと二か月で二十歳になる三毛猫である。四月二十二日が誕生日。人間なら百歳ぐらいの立派な後期高齢者である。でも記憶も体力も若いも者には負けないくらい元気で、病気知らずの三毛猫である。器量も衰えていない。飼い主であるお母さんといい勝負になっている。それでも生き物の命ははかない。現に、一緒に二年間を過ごした水槽の中の金魚が二匹とも続いて死んでしまった。地震が頻発している中、先行きどうなるかわからないし、みんな五十パーセントの確率で生きていることを思うと、残された時間はあてにならない。猫だってここまで生きてきた証のようなものを残したい。残された時間に向き合って、今まで仲間がてがけなかったような自分史に挑戦することにした。人間世界に入って、いかに多くの助けと恵みを享受したことか。自分の人生を振り返ってみると感謝することばかりである。一方で、わたしを育て、大きく成長させてくれた飼い主一家に、多少の心配はかけたものの楽しみと癒しを与えてきたことを誇りとしたい。わたしの名前は三毛子。ユニークで素晴らしい猫の足跡が描けますように。2012年2月22日 ニャンニャンの日なんて特別な日があるのも嬉しい。

2012年2月5日日曜日

日光清風塾 第11回塾長講話会

歴史的大寒波が続いた中、台風の目のような日となった今日、清風塾第11回目の塾長講話会が予定通り開催された。原則として毎月第一日曜日におこなわれているが、一月は正月の流れで休講としたため、今回が今年最初の講話会となった。その意味をくみ取って、講話は新年の挨拶から始まった。

支援センターでの講話会

さて、今回は今議論されている「社会保障と税の一体化」に焦点を定め、講師がまず話をするのではなく、参加者から疑問点、議題を提出してもらい、それらをわかりやすくまとめて解説、議論するという形式がとられた。後で回収したアンケート用紙には、この形式に賛否両論があったが、個人的には、こういう形式をとって議論するのも良いと思った。ただ聴くだけより、参加型の講話会として貴重な試みだったと思う。丁度、昨日、総理が慶応大学でこの問題をとりあげて学生に解説したことがマスコミで報道されていたが、日光の支援センターが日光版ミニ慶応大学化した雰囲気で、何だか、学生時代に戻って問題に取り組んだ印象が得られた。


提出された議題は写真のように、かなり理解するのに複雑なものだったが、要点を得て準備された資料をプロジェクターで画像にしての解説は、わかりやすかったのではないだろうか。
①国債債務残高の問題
②消費税増税の問題
③歳出削減
④将来の日本の人口の展望
⑤女性、非正規労働者の社会保障、年金の安定化
⑥ノルウェーの場合、高い消費税(強い反対を押し切って政府与  野党が国家を救済するためと訴えて20%を決定したいきさつと、今や更に25%になっている)にもかかわらず、国民は納得しているという現状

こういった議論をする上でポイントとなる数字を把握しておくことが重要であることを再確認。日本がかかえる借金が1000兆円、GDPがその半分の500兆円、国家予算が90兆円というのがまずポイント。国家予算の中に占める社会保障費は20%で、先進国の中ではまだ17位ということ。政府は最低限の保障を守るために、増税は必須ということを言っている。消費税増税ではなく所得税の累進課税を改正すべきという意見もあるが、今の高所得者の上限40%をたとえ倍の80%にあげても、計算上3兆円弱にしかならない。消費税を1%上げた場合、2.5兆円税増収となる。(5%上げると12.5兆円増収)。それでも将来的には更なる増税が必要となるということ。2020年が税制改正した場合、検証される重要な時になるという。人口は右下がりになり、高齢者が増えて子供の数は少ないまま。経済活動は沈下。中国やインドは国内の需要が低いままに、安い製品をどんどん海外に輸出供給する。日本は中国のマーケットと化してきている。日本に投資を呼ぶどころか、日本の投資は中国に向かって外に出ていく状況である。

がんにおかされている日本は今、緊急処置は必要だが、国家の展望を描いて、若い人の人材育成が一番の課題であり、それも真の民主主義を育む中で教育制度の見直しを徹底すべきだろうというのが結論であった。今のイタリアのようになってはならない。