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2014年3月7日金曜日

インタビュー記事 

世界平和女性連合(WFWP)ろいう国連NGOがある。「地球は一つの家族」をモットーに、海外では開発途上国での①女性の自立支援②子供の教育(学校建設・里親)③医療・保健指導④エイズ予防教育のプロジェクトを創立1992年以来展開して来ている。国内ではこれらのプロジェクトを支えるしえん活動のほかに、女子留学生支援、教育再建のための草の根ボランティア活動を展開。その組織が月刊「ハーストーリー」という機関誌を発行している。最近の活動の紹介は勿論、平和へのネットワークづくりを目指して、世界と日本の女性たちが直面している問題を取り上げている。ほんの30頁ほどの細身の雑誌であるが、その内容の幅広さと深さに私は毎回感心させられている。他に例を見ないほどの逸品だと思っている。このたびご縁があって、そのNGOの栃木県連合会からインタビューを受け、その記事が、栃木支部会員に配布される「ハーストーリー3月号」に折り込まれた1枚紙の当支部の活動報告の中に掲載された。私自身が啓発され勇気づけられた思いになり、このブログにコピーすることにした。



―平和の為に生きる人―




河合慶子先生 

島根県出身。京都大学文学部仏文学科卒業。在神戸フランス系企業勤務後アメリカ・マサチューセッツ州立大大学院留学。
1969年外務省勤務の河合正男氏と結婚。以降、夫に同伴して海外と国内での生活を繰り返すこと36年。子育てに一区切りついた頃、日本に在住している間は発展途上国からの研修員の為のJICA各種研修プログラムにコーディネーターとして携わった。2006年より日光市在住。地元でボランティア活動、EECC(楽しい英会話クラブ)の指導に励む。一男二女孫五人。WFWPでは女子留学生弁論大会の審査員としてご協力頂いている。趣味は、ゴルフ、スポーツ観戦、ブリッジ、日光彫等。




 
今月は、先月掲載させて頂きました元ノルウェー特命全権大使の令夫人であられる慶子夫人を取材させて頂きました。まず、夫人の執筆なさった「外交官の妻として・・」のあとがきの中から引用させて頂きます。
19695月に結婚して以来、私達は日本と外国が半々という生活をしてきた。在外はカナダのオタワから始まり、その後、インドネシア、ニューヨーク、クウェート、パリ、再度ニューヨーク、ブルネイ、そしてノルウェーという順番で、それぞれ2~3年の長さで在外公館に勤務した。その間、任国での引っ越しを含めると、現在まで19回の引っ越しをしたことになる。半分カナダ産の長女を筆頭に、日本産の次女、そして、インドネシア産の長男というように、3人の子どもに恵まれた。それも、日本から外国、外国から外国、それも北から南の国へ、あるいはその逆であったり、というパターンの繰り返しであった。引っ越しは実に大変な仕事であり、無駄も多くあった。夫が館長のポストになるまでは、赴任先で、まず住まいを探し、家具を調達してとりあえず住める状態にするというのが第一の仕事。子どもの教育のことも念頭においての環境づくりは、易しいものではなかった。夫々の赴任先でいろいろなことを感じ、色々な経験を重ねてきたが、不思議な事に、今、振り返ると、多々あった困難なことも、すべて懐かしい思い出となっている。」
 先日ご自宅を訪問させて頂いた時お子様はいらっしゃらないのではないかと、思い込んでいましたが、夫人の本を読ませて頂き、お話を伺う中で、とんでもない勘違いをしていたことを反省しました。公私を区別しての海外生活は厳しいもので、ゲストをお迎えしての設宴が続く生活の裏で、お子様の教育にも心を砕いてこられたことを知りました。環境が変わる中でお子様たちもよく親についてきてくれたと感慨深そうに話しておられました。
 ここで一つ、小さい頃のエピソードを引用させて頂きます。
「小学生の頃、毎年夏休みには、母に連れられて、当時松江にいた祖父母の所に行ったものであるが途中の汽車の中でのエピソードは、後に私が成長してからも、幾度となく笑話として聞かされた。あるとき、私達母娘の前にいかにも都会風の紳士が座っていた。その紳士に『お嬢さんはどこから来たの』と聞かれて私は胸を張って快活に『川本から!』と返事した。「ふ~ん?川本ってどこ?」と更に聞かれて、私は緊張の糸がほぐれ、『え?おかあちゃん!このおじさん川本知らないんだって!』と相手の無知に驚きの声を発した。『じゃ~おじさんはどこから?』と私は聞き返した。『横浜からです。』『ふ~ん?』このやり取りに母は赤面しながらも、私の積極的で勇敢な会話を大変楽しんだらしい。世界の中心は川本であった当時であった。無理もなかろう。」
 この微笑ましいエピソードを読んだときに、現在も全く変わっていらっしゃらないのではないかと思いました。おおらかで何事に対しても生き生きとした様子が伺えます。
 長い外交官生活の中で奇跡的に最後の1年だけ亡くなる少し前のお母様と生活できたことが有り難く、それまで側に居られなかったことへの償いが凝縮されて出来たことに感謝しておられました。そのお母様が詠まれた句がここにあります。母娘の強くて温かい絆が偲ばれます。
「外つ国の 姫の便り待つ 木の葉髪」




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