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2010年9月26日日曜日

9月25日(土)心配された台風も雨模様程度で大きな影響は無く、かねてから予定されていた「会津西街道ウオッチング」というバス仕立てのアウティングが決行された。よくあることだが、8:30出発というのが一人の大幅な遅刻によって40分もの遅れを余儀なくされた。担当スタッフの気持は察するにあまりある。
大谷橋を渡ってからR.461会津西街道に入る。バスの中で佐藤先生の説明が素早く始まる。懇切丁寧な語り口で始まった知識満載のバスツアーが予感され、私は心が弾む。コーディネーターの立場にある美保子さんの語り口も皆の心を和ませ、落ち着かせるもので、何故か安心して、おんぶにだっこ状態でいられることがありがたい。
●日光道中(日光街道)の沿線には、近辺の農民が集められ、軒割されて人が集められ、生活集落が形成された。大正時代、版画職人が銅板に当時の今市の景観を刻んだものがあり、そこに、会津方面に向かっては11本の道が、逆方向のお小来川、山久保方面には3本の道が描かれている。道の数からいって、いかに会津が大切な地であったかが分かる。
●田島と今市の太い関係は経済圏を築きあげた。今市の六斎市の話は貴重。1か月に6回も市が開かれ、田島からは農特産物、日用品、漆器などが運ばれ、今市からは塩を持ち帰って、冬場の為に、農作物の塩漬けに重用されたという。今では町の活性化を目的に、1か月1回の六斎市が有志の組織によって開かれている。今でも田島からの漆器職人が参加していて当時の名残ということがわかる。
●田島周辺の農民は、農作物を馬で田島まで運んでいたが、それが幕藩体制の下、田島を起点に宿から宿へ馬での物流が始まる。この仕組みを更に越えて田島から今市までつけ通すことをやり遂げるようになる。自家用の物を大きく流すことに目をつけたのが中づけであり、物流組織の元祖となる。
 (つけ通す=品物がより速く、より安全に、より物を大切に運び通すという意。)
ここから、会津西街道が人間愛と創造性が詰まった街道となり、農民の運輸業者が現れ、やがてそれが会社組織となっていく。この街道の立役者は、馬であり、沢山の馬を持つことが重要となる。馬を立てるという言葉があり、仔馬をとって育てて使う。つまり、馬を家族の一員として育て上げ働かせたのである。馬頭観音像が建てられている理由がわかる。

以上のことを頭に入れて、実際の風物、名跡をポイント的に見ていくというのが今回のウオッチングのテーマであったが、次から次となされる佐藤先生の充実したお話を聞きながらの見学は素晴らしいものであった。

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