コロナ禍の様子を見ながら、インドネシア大使館訪問の企画を立てるタイミングを見ていたが、そのうち膝のトラブルが重なって消極的になってしまっていた。しかし、イベントの企画は時間を要するので、とにかく、資料作りだけはとの思いで、PPT原稿作りに取り組み始めたのがついに5月末。プログラムは夫が大使館と連絡をとりながら、どんどん進めて行く。何回編集し直したことか。動画を入れる段になって、技術の乏しさに衝突。幸い、センターのMr.Shimazakiが大変親切に教えて下さった。動画の編集はノウハウが無くては無理だとわかり、わかるまで何回時間を貰ったことか。正直、今でも迷うところが多いが、とりあえず、形は出来た。それが訪問する一週間前。そこから、プレゼンの試行錯誤が出現。プレゼンをやってくれるMr.Kazamaに相談しながら、一寸、気を遣いながら、クラスでも実践し、別途センターでプロジェクターを借りて、指導して貰ったり、実に、詰めた緊張の一週間であった。書類づくりと参加者確保と書類の伝達、事務連絡作業を事務局長がてきぱきやってくれたことが幸いして、前向きにどんどん作業は進んだ気がする。最後のプレゼン練習をやったのが実に7月6日の本番の前日。おかげで、体重が減って、体調がすっきりしてきた。後は、天にお任せ。プレゼンテイターもひょっとして、O型?余り、神経質にこだわらないところがよかった。何とかなる、という思いでいるのがよくわかった。石橋をたたいて渡るタイプでないのが、こういう時はいいのかもしれない。
さて、7月7日当日の朝は爽やか。暑くもなく、雨も降りそうになく、いい予感がした。夫は前日に別のアポがあったため、前日に上京。それも私にとっては幸いした。自分だけに集中して、準備が出来た。当日の朝はメンバー仲間のMr.Sugawaraのご厚意で、下今市駅すぐ前の彼の邸宅の庭に車をおかせてもらった。もう一人、宇都宮からのメンバーと一緒に。そして、無事乗り込んだ7時45分発の電車には、日光から乗り込んだ仲間も居て、いよいよ出発の意気込みになる。みんなで、スラムを組んで出発進行!四谷駅で更に別の電車で来た参加者と合流して、無事29人全員が揃って5分の道のりを大使館に向かって進行。何だか、お祭り気分。
大使館では、初めてこういった場所に来たという人達にとっては、刺激的だったよう。三々五々、待合ホールで待機してもらって、プレゼンの準備設定のため、プレゼンテイターとプログラムが行われる9階に行き、パソコンの設定にかかる。Oh my goodness! USBを持参していて安堵する。つまり、パソコンは大使館のものが既に、音響などの機材と設定されていたので、持参したパソコンを使うのは無理であったのだ。音が小さかった動画部分の音響も調整出来ることがわかって、二度安堵する。
プログラムは予定通りスタートしたが、どうしても、予定よりを遅くなるもの。全部が終了したのが結局20分くらい遅くなったが、tidak apa apa! 上出来であった。大使は公務で大忙しで結局、お会いできなかったが、事前に、夫が大使館側に依頼して、大使のメッセージをいただいた。これは良かった。そして、公使参事官のMs.Meinartiさんがまず、ウイルカムワードを。そして、夫が、最初のサンキューリマークスを殆どインドネシア語でやってのけた。英語がその後続いたが、現役時代を思い起こさせるほど、立派なものであった。勿論事前の勉強、準備はしていたが、それ自体の姿勢が一向に衰えていないのには感心せざるを得ない。あの物事を実施する場に及ぶ時の態度というか、姿勢を維持するには相当のエネルギーを使う筈であるが、やわらかい表情でやってのけるところは、まだ、プロ意識が健在だと、つくづく感じいってしまった。これは、最後のお礼の言葉の時も同じ。
大使館側のプレゼンは慣れたもので、フリーハンドでスムースに親近感を持たせるほど、温かい、柔らかいムードの中で行われ、気持ちもほぐれる。そのご、いよいよ日光清風塾側のプレゼンへと進んだが、Mr.Kazamaはいつもの変わりなく、何とかなるという姿勢で臨んでいたようで、サポート役の私も気持ちが楽になり、プレゼンは滞りなくやってのけてくれた。後は、ギフトの交換(これも、嵩張る石屋の煎餅を4缶、日光か
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