9月12日の昼下がり、長兄の長男から珍しく電話が入った。「・・実は、父が亡くなりました。・・」晴天の霹靂とはこのこと。余りに急な事態が起きたことにショックを受けた。約一カ月前、忘れもしない、8月3日の日に、三人の兄たちと夫々続けざまに電話で近況を話し合ったばかりだったので、信じられない知らせであった。あの時は、私自身がご無沙汰していた所が、この酷暑に耐えかねて、兄たちに長文の暑中お見舞いを出したところであった。それに対して、夫々が電話をくれたのであった。甥とバトンタッチした義姉がしっかりと長兄が亡くなった8日から9日未明にかけての事の成り行きの詳細を話してくれた。実は9月9日朝に救急車で運び込まれた病院で死亡が確認された。コロナ患者を看護している病院でもあり、家族は病院の外で待機したままの状態で、兄は一人で逝ってしまったのである。コロナ禍の中、お通夜と告別式は子供たち、孫達だけで執り行い、お骨を自宅に納めたところで、兄弟たちに知らせているところだという。
人の一生というのは不確かなもの。命のはかなさをつくづく思った。あれこれ漠然と死について思いが彷徨い、行きついたところは、命が生かされている限りは、一瞬一瞬を大切に生き抜くことが私達の使命だということである。死んでしまえば死者には後悔はないが、遺された者が後悔しないように生き抜くことであろう。長兄は享年88歳。寿の年齢である。急逝ではあったが、二人の子供達、孫達もしっかり成長して、幸せな日々を送ったに違いない。最期に会えなかったのは口惜しく、残念であるが、88年の生涯を全うしたことに、お疲れ様でしたと言いたい。
私は、すぐ、長兄へのお別れの言葉をしたためた。
【 克実兄上様
九月十二日の昼下がり、珍しく悟朗君から電話がありました。
「河合さんですか。あっ、慶子叔母さんですね。ご無沙汰しております。・・・実は父が亡くなりました。(えっ⁈) すぐ連絡をしようと思ったのですが、このコロナ禍にあって、お出かけいただくことは出来ないので、子供たち、孫たちだけで、お通夜、告別式を終えた今、連絡を差し上げる次第です。報告が遅くなりましたが実は九日に亡くなりました。・・・」
余りに突然の訃報に驚き唖然としてしまいました。悟朗君に代わって都亥子お姉さんから、九月八日夜から未明にかけてのお兄さんの様子を詳しく伺い、こんな急な最期を迎えるなんて信じられませんでした。八日の夜、九時頃、いつものように自分の部屋で就寝し、十時半頃一度トイレに起きて、その後、いつものように、寝室に戻ったそうですね。でも、その夜は、お姉さん、何故か眠れなくて、お兄さんの部屋に行くと、いつもの様子だったので自分の部屋に戻られたそうです。それでも、胸騒ぎがして、行ってみると、脇腹が痛いと言うので、横になる姿勢をいろいろ変えて看たそうです。そのうち、「もう大丈夫、おかあさんもはよう寝えや。」と声をかけたそうですね。深夜に、もう一度気になってお姉さんがお兄さんの部屋に行って見ると、口を開けたまま寝ていて、何か異常を察し、側に行って見ると呼吸はせず、脈も止まっているのを知って驚き、救急車の手配をしたのだそうです。
それからはすぐ来てくれた救急車に乗せて、病院探し。コロナ禍の中で、幸い近大病院が受け付けてくれたそうです。ただ、やはりコロナ禍にあって、お兄さんだけが院内に入り、お姉さんは外のテントの中で待機する身となりました。やがて、優子ちゃんも駆けつけてきて、一緒に待機したものの、その時の心配と不安と恐怖の気持ちを思うと、想像を絶するものがあります。そのままお兄さんは、一人で逝ってしまいました。お姉さんに掛けたあの言葉「大丈夫、おかあさんもはよう寝えや!」が最後になってしまった、とお姉さんは悔しい気持と共に、優しい響きが胸に残って、救いになっているとも言われました。
長男として、何かにつけ、陣頭指揮を執り、頭が良くて、小さい時からリーダーシップがあったと昔、美喜子お母さんからよく聞かされました。頼りがいがある子供だったと。私の中でのお兄さんは、川本時代、お兄さんが京都で大学生の時、夏休みにはしっかりアルバイトをして、沢山お土産を買って帰省し、弟妹にプレゼントをくれたこと、和菓子屋でアルバイトして羊羹の作り方を覚えて、実際に帰省した時、皆に作ってくれたこと、又、私が大学生の時、就職した時、大阪の生地問屋に連れて行って、スーツ、洋服の生地を買ってくれたこと、などなどいろいろ面倒を見て可愛がってくれました。そうそう、私が赤ん坊の時は、遊びたい盛りに母から子守を託された時は、背中に私を縛り付けて、屋根の上でチャンバラごっごを近所の遊び友達とやったり、私を寝かせるために、トンボとりの手法で目を回させて寝かしつけて、遊びに出かけたとか、子供の知恵を絞って、うまく、母親の言いつけを全うしたとのこと。まだまだエピソードは沢山ありますが、私の拙著である「外交官の妻として・・・家族とともの歩んだ世界」の中に書いているので読んでくれていることと思います。沢山お世話になりました。想い出は尽きません。本当にありがとう。
享年八十八歳。寿の年齢です。お疲れさまでした。どうぞ安らかにお眠り下さい。
心からご冥福をお祈りいたします。 合掌
令和三年九月 妹 慶子より 】
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