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2012年3月20日火曜日

三毛子 ⑥

 お母さんはJICAの仕事をいったんストップ。ニューヨークへの引っ越しの準備でかなり大変そうだった。わたしに出来ることは何もない。お母さんが動き回って一寸一息つくときは、すかさず膝の上にのって息抜きをさせてもらうのが唯一出来ることだった。家の中はダンボール箱が積み重なって行き、わたしにとっては落ち着かなかったが、又、部屋の様子が変わって行くことが面白く、すき間をあちこち偵察して楽しんでいた。お母さんが、出かけることも多く、そんな時は、余計に雰囲気の変わった家の中をあちこち歩き回り、家の中を一番知り尽くした気になっていたところがある。どこかにしまいこんだ荷物が必要になって、また探し回っているお母さんを見ていると、「ここにあるよ!」って教えてあげたくてもそれが出来ない。無力感極まりないことが多々あった。


 やがて、ニューヨークへの赴任の日取りが決まると、逆算して段取りが決められていった。お父さんの生家や親せき、お母さんの生家と親戚、それにお母さんの叔父さん家族にまず挨拶回りに行く。運送屋との交渉。お兄さんが入ろうとするアメリカの高校の情報集めなども必要となってきた。海外にまるごと引っ越しの大変さをわたしはしっかり観察した。着るもの、台所用品、日用品、装飾品、本などが主だった。家具は現地で調達するらしい。それにしても身の回り品だけなのに、何て荷物の多いこと。現地には無いかもしれないという懸念から余計な荷物もかなりあったに違いない。

 そして、私にとって一大事だったのが、予防注射。避妊の手術をしたときに、麻酔の注射はしたことがあるので、注射はそんなに怖くはなかった。それにしてもアメリカに入国するためにはワクチンを打って、その証明書が必要ということで逃げるわけにはいかない。観念して予防注射をしてもらった。痛かったが、一瞬の出来事でおわってしまった。きちんとした証明書を貰い、私に関しては他には何も義務付けはなかった。ただ、飛行機の中がどんな具合なのか心配であった。おかあさんがケンドン風というか、ロベルタ風というか、色のコンビネーションが鮮やかでしゃれた携帯用かごをどこかで買ってきてくれた。私を運ぶためである。これも初めてのことで、果たしてその中でずっと耐えられるかどうか、自信がなかった。身辺があわただしくなって、いよいよ観念する時がやってきた。



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