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2024年11月12日火曜日

2024年の紅葉は例年より10日は遅い様子

 11月10日 今までで一番大勢の参加者を得ての紅葉狩りBBQ&HC

昨年は11月5日だったと記憶しているが、あの時も紅葉は遅く、タイミングに失敗して経験から、今年は一週間弱ずらして10日に決めていた。ところが、今年は更に遅れて10日の森は新緑状態。温暖化ばかりではなさそう。今夏の並みでない酷暑に加えて雨が続いた。これが最大の原因だろう。りんごも実らないという。お土産品としていつも地元の美味しいリンゴを用意するのだが、Aリンゴ園には「名月」という青いリンゴしかなかった。「ふじ」は11月下旬からだと予測されているという。ただ、青い「名月」も甘くて味が上品。今年は赤でなく青で決めた。

ガーデンコンサートなので、キーボード、カラオケセットは野外に置くため、万が一の雨を考えてブルーシートで屋根造りも二人で準備。梯子から落ちないよう、神経を使っての作業もなかなか板についてきている。経験から要領を掴んでいる。とにかく、庭もそうだが手造りでやることに意味があると信じて、アイディア、労力、時間をかけての創作作業はもう15年以上は続いている。が、年と共に加齢は避けられないこと。慎重に最新の注意をしながらの作業なので、時間は以前よりかかるのが正直な所。しかし、大変ではあるが、面白い面もあり、楽しんでやるように心がけている。(特に庭の草刈り!)

昨日から歌姫の次女と彼女の職場での友人音楽の先生が泊りがけで来て、いろいろ手伝ってくれたというより、歌合わせ、リハーサルを行った。一昨日にはXmasさんからカラオケの機材と野外でコンサートをやる関係で、キーボードを搬入して貰って、万が一の場合はこれにたよっても良いよう、苦肉の策であった。しかし、肥田木先生はバリバリの武蔵野音大ご出身のアーチストさんであることがわかり、脱帽。学校で教えるかたわら、自分自身のキャリアを深めるためにチェンバロを学んでいるという。とても積極的で話好きの若い女性。娘とも話が弾んで、縁とはありがたいものとつくづく思う。父母娘三人でカーペンターズの「Top of the world」の合唱練習が食後に始まる。娘がリズムに乗ってphoneticも指導。頭で学んできた我々には体で覚えて来た子供達にはかなわない。素直に親が子に教えられる場面が誕生。何とか行けそう! しかし、私の心は食事メニューのこと、仕込みのことで一杯。とにかく仕込みが出来るものはやっておかなくては。ちなみにメニュー内容は・・・

スペアリブ40人分・・・BBQ現場で塩コショウ味で焼くのみ(量の確保に一苦労があった)  鶏肉もも肉・・・・・6㎏ 現役時代から慣れ親しんできた手作りつけ汁に前夜から漬け込む  ポテトサラダ・・・ポテト40個の皮むき キューり薄切りを塩で軽く揉む 薄切りハム          イカ解凍・・・・・適当な輪切り                                   フランクフルトソーセージ・・・4,50個                         マッシュルーム・・・・人数分切れ目を入れてすぐ焼けるように バター醤油で        パプリカ・・・・・・一口サイズに切っておく                       お稲荷さん90個・・すし飯ではなく、白米に自家製しその実を混ぜたライスとお揚げの用意                       焼きそば材料の用意                                   煮物 と 野菜サラダ  Fさんが当日差し入れして下さった                 果物          Yさんが当日差し入れして下さった                                    スイートお茶菓子としてレモンクッキーを数日前に5ダース焼いておいた

飲みもには、ノンアルコールのビールとペットボトル、コーヒー

その他、沢山のお菓子類を手土産にいただき使わせていただいた。量を用意するのは冷蔵庫のキャパの問題で夏場は無理であるが、この時期はありがたい。

という具合で、当日の朝は5時起床。ライスを炊き、ポテトを茹で、食材の用意多々。庭のセットアップ用意。参加者の何人かは9時半頃から来て手伝って下さったおかげでスタート時間の11時には参加者もだいたい来場。まずBBQもスタート。ただ全員が集まるのを待って集合写真も撮ることに。

案ずるより産むが安しとは良く言ったもの。いざスタートすると神さまは我々の見方をしてくれるもの。小雨でスタートしたものの、大雨にならず、結果オーライ。野外でのBBQもコンサートもしっかり予定通りに進んだ。みんな、大いに食べて、お喋りして、音楽会を楽しんで下さった様子に本当に感謝。次女の明るい対応、おもてなし振りも大助かりでありがたかった。東京からの学生15人、友人約10名、地元からの友人と宇大からの留学生達が入って総勢我々を含めて47名。3時ごろからは外も薄暗くなるばかりなので、屋内に移動。ここからは人数も少し減って屋内に収まる人数となり、ピアノを使って本格的な歌唱をやる人、歌う人あり、そのうち、学生さん達の本領が出てカラオケで大盛り上がりを見せた。学生さん達には更に6時半頃から軽食のお蕎麦を供してスープもお蕎麦も空になるまで楽しんで貰えた。

東京からの私の友人二人は其々独唱もやってくれて、場を盛り上げ江下さったのは嬉しかった。Hご夫妻も体調が難しい中、良く参加して下さって最高の慶びであった。多謝

ムナさんと由香さんにはお泊り頂いて翌日ゆっくり帰京していただいた。沢山協力していただいて感謝あるのみ。終わり良ければ全て良しである。 達成感もついてくる。




2024年10月20日日曜日

10月は季節の関係でたまっていた会合が一挙に動き出す時

 まず、5日には麻布十番富麗華中飯店で「パークアベニューで昼食を」(これはオードリー・ヘプバーンの有名な「ティファニーで昼食を」からもじって勝手に私が命名した恒例の集まり。始まりは元国連O大使夫人を囲んでご夫人だけの昼食会であったが、オランダでの勤務を終えられたO大使が国際しほう裁判所 ICJを退任されて帰国されてからはご夫妻を囲んでの恒例の昼食会になった。2023年の昨年は大使が91才になられた直後ではあったが、卒寿の祝いとして大きなバーステーケーキを用意した。一昨年はコロナの関係で会食は中止したが、皆で卒寿の祝いのメッセージをお送りした経緯がある。そして、今年は92才というご高齢になられたが、相変わらずの淀みないお話し方は健在であった。24名が集い、年ごとに大使ご夫妻への接し方が、皆、次第にゆるやかになごやかになってきていることを感じた。準皇族になられてから何となく、緊張していたようなところがあったのかもしれない。愛子様がご立派に成長されたこともある。この5月に宇都宮で5大学共催で講演をしていただいたことも私達夫婦にとっては特別なことであった。日光清風塾の塾長として夫が企画し、奔走して実現した大イベントである。そして翌日には我が家においでいただき、地元の仲間20人ぐらいが集って、五月日和に恵まれた最高の条件下で午後の一時をすごしていただいたのである。東京の多忙な環境を忘れて、ほんの一時を自然に恵まれた環境で憩っていただいて本当に良かったと思う。私達の人生のハイライトとも言えるイベントであった。

そして10日後の15日には、「41(良い)同期夫人会」が銀座の老舗和食店で開催された。これは私も幹事役の1人としてもう一人の幹事役N夫人と連絡を取りながら実現したものであるが、彼女の質の高い人脈のおかげで、銀座加賀谷に決まった経緯がある。能登半島地震と洪水により、和倉温泉加賀谷が大打撃を受け、しばらく休業となっているが、その救援チャリティーを兼ねた食事会となった。九谷焼の素晴らしい器に盛られた日本料理が器の絵の中に溶け込んだようなまさに芸術作品を目の前に鑑賞してから消化するという、今まで経験したことも無いような食事会であった。出席者は9名で、だんだん参加人数が減ってきているのが気になるところである。話題も、やはり、健康の話が多くなる。面白かったのはスマホをもちながらも、皆さん余り使いこなしていない中で、ライン接続を提案し、グループチャットが開設出来た事である。場所を代えてコーヒーをいただきながら試行錯誤で達成出来た時は皆ハピーであった。年寄りでもやれば出来るという発見があったこと。私はこんな所で仲間の役に立てたことが一寸嬉しかった。

明日は今市文化会館での文化祭に私達petit choeurの出番がある。一曲だけ歌うことになている。「いつかこの海を越えて」 歌詞の確認をしておこう!





2024年9月29日日曜日

東京への珍(沈)道中気 

 先日9月14日に孫No2のグラホの高校最後の試合を見に東京まで出かけたことは既に書いたが、その時の東京行きの大失態がいつまでも頭に残る。それを面白い想い出とする為に「珍道中記」として書き残すことにした。するとそれを読んでくれた小五の孫No4の妹が感想を発信してくれた。孫とこういう交信が出来たのは初めてである。彼女の感想も付記しておこう。

珍道中でも沈道中となったこの日のことは忘れないよう書いておこう。(925日記)

 2024914日(土) 翌日の15日に孫No2の星太の高校最後のグランドホッケー(グラホ)西東京大会が駒場第一球技場であるという。その応援に行く目的で町田へ。夫は「オッペンハイマー」が新宿の映画館で本日が最後の放映ということで、そちらへ向かうというので東京まで一緒に出かけた。

 「遊びに出かけるので、特急を止めてローカルで北千住へ。9月より無料だった市営駐車場が有料になったこともあり、時間を考えた挙句に1309発南栗橋行きに乗車。眼の保養にと外の景色をぼんやり眺め、持参する物の確認、予定の見直し、やるべきこと等々いろいろな事が頭の中を駆け巡っていた時、突然、思い出してしまったことが。出発前に思い付いて家の掃除をしたことがいけなかった。二階の窓を全部開けっ放しにしていたことを思い出したのだ。電車は間もなく栃木駅に着こうとしていた時だった。

「いやー!どうしよう?!閉め忘れて来てしまった!」と叫ぶ私に、「また、始まった。もういいよ!」と呆れる夫。「不用心だよ!」と私。結局私は栃木駅で下車して折り返し帰ることにした。孫No4の明里ちゃんへのプレゼントにと大事に持参した世界地図、各国の挨拶言葉とナショナルコスチュームのイラスト付きの特別な大きな地図であるが、それはしっかり丸めて握ったまま電車を降りて、ホームの反対側へ。間もなくローカル線が来たが、その後に特急電車が一台来る。節約して東京へはローカル線に乗ったものの、思いがけない失態に引き返しは特急に乗り込む始末。すかさず車掌がやってきたので、栃木から下今市までの特急券を購入。車中での購入は200円増しで1,150円。更に栃木からの乗車券610円も支払うことに。結局下今市から東京までの特急券を買ったのと同じになったが、その時はそんなことは言っておれない。早く戻らないと、町田に到着するのが遅くなってしまう。慌てる時は次々と失敗が続くものだと納得しながら落ち着いて行動をとったつもりが、落とし穴がもう一つあった。下今市駅に着く寸前にあの大事に抱えていた筈の世界地図が見当たらない。降り口で気づいて、大急ぎで座っていた座席に駆け込んだが、何も無い。もしかしたら、栃木駅で電車を待っていた時に座ったフォームの椅子に置き忘れたのかも知れない。あきらめて下今市駅に降りた。駅のスタッフに、引き返した事情を話し、忘れ物(地図)の申告もしておいた。同情してくれたのか、最初の東京行きの乗車券はもう一度使うことを許された。気の毒に思ってくれたのだろう。これは特別扱いだとの事。情けに心底感謝した。

大急ぎで市営駐車場に行って駐車券を入れたら丁度ぎりぎり2時間の駐車で無料(最初の2時間は無料)。ささいなことながら、不運な事態に一条の光を見た思いとなる。家に戻ると二階の窓は堂々と開いたまま。猿軍団がやってくる前でホッと一息つく。しっかり戸締りを点検して再度車を飛ばす。今度は駅に隣接した東武の駐車場が一台分だけ空いていたので迷わずそこに駐車した。そして、今度はこれも迷わず北千住まで特急で。目的地には予定より2時間遅れで到着した。事の一部始終を聞いてくれた娘曰く、「お母さん、良く説明できました。何が道中で起きたのか、良く理解出来たよ。実は娘の送り迎えなど、一番忙しい時間帯だった時なので、かえって遅く到着してくれて好都合でした」と。私が、子供のように、興奮して失敗談を息せききって親に話す子供に見えたのかもしれない。

 実は、最初に夫と東京へ向かう電車の中で、持参していた世界地図には素晴らしい文言が掲載されているのを発見し、それを手書きで手帳に書き写していたのである。虫の知らせか、Uターン騒動でどこかへ置き忘れてしまった地図は結局失ってしまったが、この文言は手元に残った。この騒動の代償としていつまでも記憶に残しておきたく、ここにそれを記載しておくことにした。作者は誰か不明。」

 日本だけが 国なのではない

日本人だけが 生きているのではない

世界には さまざまな人が 生きている

肌の色 瞳の色 髪の色 言葉 食べ物

信じるもの が みんなちがう

でも みんな きっと 嬉しくて笑い 悲しくて泣く

みんな きっと 同じようなことで 喜び

みんな きっと 同じようなことで 悲しむはずだ

 

そして 生きているのは 人だけではない

動物 鳥 魚 虫 草 木 花 菌

ウイルスも 生きている

海が 生きている 山が 生きている

川も 土も 石も

地球そのものが 生きている

みんな ちがう すがたの中に

みんな 同じ 命が生きている

命が 生きようとしている

 

眼を閉じて 耳を澄ませば 命の声が 聞こえる

ことばにならない「こんにちは」「ありがとう」が 聞こえる

世界は「こんにちは」「ありがとう」で 満ち溢れている

今日も 世界中で あいさつがかわされる

地球の上の 命が あいさつをかましている

あいさつのことばが 人を傷つけることはない

あいさつは 目の前の 閉ざされた扇を あける

笑顔のあいさつは 戦争も テロも いじめも 差別も

産まない

でも 世界中から 戦争や テロや いじめや 差別が

消えたとしても

飢えも 貧困も 病気も 災害も

事件や 事故さえ 地上からなくなってしまったとしても

涙の止まらない夜 一人ぼっちの夜は 必ずやってくる

そんなときも 夜が明けたら あいさつをしよう

たとえ まわりに 誰もいなくても

自分の命に 自分の中で 生きようとしている命に

「こんにちは」「ありがとう」を

 

あいさつは 東の空の朝の光 西の空のオレンジ色の夕焼け

あいさつは 春の日のそよ風 夏の日の木陰

あいさつは 秋の日の澄んだ空 冬の日の陽だまり

あいさつは 朝の希望 昼のいたわり 夜の感謝

笑顔のあいさつからは

戦争も テロも いじめも 差別も

生まれない (生まれるのは 命へのいたわりだ)

 

メールと詩を送って頂き、

ありがとうございます😆

兄の試合観戦に行く途中、

お疲れ様でした🏑🏟

この詩では、価値観の違いなど、世界のさまざまなことを考えさせられました。

今は塾で公民(日本国憲法)をしていますが、

「第14条 法の下の平等」が1番当てはまるなぁと思いました。

この憲法は戦後すぐに作られたのに、最近はウクライナ侵攻やガザ地区など、思えば昔の人の方が頭が良かったような気もしてきました。

この間、こんな言葉を聞きました。

「世界の人たちみんなが思いやりを持っていれば、戦争なんか起こらないのに。」

子供の私には、何もできませんが、明るい未来が迎えられますように。🌏🤲

 

長話に付き合って頂き、

ありがとうございます。(ありがとう) See you again   明里より


2024年9月18日水曜日

孫No2の高校最後の試合

 孫No2の星太の私の勝手な呼び名はお星さま。妹明里(孫No4)の私流内心の呼び名はお里ちゃん。つまり長女の二人の孫たちには父親がセミプロ的山登り愛好家であることに起因して宇宙大地の広大なイメージが捧げられている。それに応えるかのように星太は小学5年の時に百名さんを踏破、当然ながら妹もその三分の一ぐらいは登っている。その彼ははや高三となり、部活では初めてのグラホと通称されているグランドホッケー、つまりフィールドホッケー部で三年頑張り続けた。先般、東京チームに加わって山梨で開催された関東大会に出場。一回戦では勝ったものの、二回戦で強豪栃木県の地元今市チームに負けた。良い経験を得たようだった。

9月14,15日

今回は西東京の最期の試合だったらしく、優勝決定戦で早稲田に1対3で負けた。その前日の準決勝戦を応援するため、日光からわざわざ前日に町田まで出かけ、娘の所に一泊。娘夫婦、お婿さんの父親も一緒に4人でわざわざ駒場第一競技場へ。車だから行けた。敬老の日の前日の15日だった。婿の父親も持病があり、92歳という高齢にもかかわらず、もともと体育会系の人の血が騒ぎ、酷暑を覚悟での決行であった。

10時に家を出て、1時間後に到着。11時半スタート。本来ならお赤飯をいただいてゆっくり、敬老の日を過ごすところが、若い父兄に交じって、ワイワイ賑やかに応援する様は珍しかったかも。その効果ありで、何と15対0という前代未聞の大差で圧勝。相手チーム(学芸大附属)には申し訳なかったがスポーツは結果を出さなくてはならない宿命にある。応援の成果を得て、その日の夕方に日光に戻った。(夫は別用で東京に)

私も実年齢から言えば孫達のイベントに出かけて行くのもそろそろ終盤にさしかかる頃だが、まだまだそれを実感しないでいる。まだ来春中学生に上がる三人の孫と5年生になる孫がいる。更に、次女の所には来年は小2年生になる里子ちゃんがいる。みんな社会人になるまで一緒に喜怒哀楽をシェアしたいもの。

(注)今回の東京行きは私の落ち度から奇異な旅となったことが忘れられない。いろいろハプニングが続いて、失敗が失敗を呼び、結果、無事、落ち着くところの落ち着いたが、もう、二度と経験はしたくない。クワバラクワバラ!

2024年8月28日水曜日

酷暑、猛烈の暑さが続いた8月

8月28日 

酷暑の候にパリオリンピックが終わり、又別の感動を与えてくれた全国高校野球が終わり、更に全英女子オープンゴルフがバトンを繋ぎ、8月は汗をたらしながら、でも、エアコンのお陰でスポーツ観戦三昧で過ごした。Tokyo 2020に続いてParis 2024でもメディア領域でスタフとして参加したムナさんがパリオリンピック後、私の旧友茂子さんにパリで合ってくれた。そして、アムステルダムまで赴いて夫のフレッチャー時代の旧友にも合ってくれた。我々に代わって(on our behalf)彼女はやりくりをして見事にミッションを果たしてくれた。その彼女が帰国したのが8月20日(21日?)。

ムナさんと茂子さんからのお土産
そして23日夕刻、前日に病院のアポで上京していた夫と我が家に帰ってきた。元気そう!約1か月のヨーロッパ滞在だった彼女は初めての経験を存分に見て感じてきたよう。パリの街並みはやはり美しいと。しかし、町中のパリ人は英語が話せなくて苦労したという。仕事仲間は国際色豊かで英語の世界。5人ぐらいのチームで彼女はメディアの幹線ともいうべき通信ラインの設置のテクニシャンとして働いた様子。表に出るキャストは性に合わないらしい。言われたことをそのまま発信するのは好まず、自分の独自性というか、創造性を活かす方が好きらしい。この仕事も自分でオプションから選んだらしい。4年後のロスオリンピックの時も参加の可能性を持っているらしい。実に挑戦意欲を持ち、何でも見てやろうと言う意気込みが感じられる。


今週末に本土上陸予想の台風10号に備えて、森の奥の小川の氾濫を食い止めるべく防波堤を築いたり、魚の捕獲目的でダムを造ったりで、昨日は3人で汗びっしょりになりながら奮闘した。夫の執念にはいつも圧倒される。この年になっても萎えない意気込みはいつまで続くのだろうか。

パリオリンピックがスタート

 7月27日パリオリンピックがスタート。開会式がセーヌ川で行われるというおとぎ話のような構想に誰もが興味津々でこの日を待っていたのではないだろうか。当事者のみぞ知るこの構想に開会式の生放送を観て、誰もが驚いたに違いない。どこでリハーサルをしたのかも定かではない。アーチストは誰かとか、演出したのは誰だとか、謎の多い開会式だったが、予想を超えた信じられないようなプロダクション、パフォーマンスで驚嘆した。フランス人らしいセンスとイマジネーション、アーチスティックパフォーマンス、フランスの文化を全部世界に向けて発信したような凄さであった。セーヌ河に各国のバトーが次々と現れる前にまず、開会式が行われたトロカデロ広場が映し出され、センスの良いライトが踊る中にエッフェル塔が姿を現し、チュイルリー広場からふわりと浮かび出たバルーンが聖火台となって聖火が点火された。パリ市街の歴史的建造物がそれぞれの役割を表して浮かびだされる。コンシエルジュリーからマリーアントワネットの肖像画が飛び出してセーヌ川に浮かぶ。奇想天外でもあり、なるほどと思わせる仕掛けありで、録画セットをしていたにもかかわらずライブ放送は最後まで見てしまった。

その後の競技については日本勢が大活躍、特に若い、初出場のアスリート達が続々登場。レスリング界の活躍は凄かった。柔道はフランスにお株を取られた形。卓球は想像通り。陸上は今までより記録的には上昇気流に。水泳界は期待され過ぎた嫌いは あっぱれあるかも。ただ、男子飛び込みが凄かった。メダル数は総合では45個、金20個、銀12個、銅13で米国、中国、の次に位置に来て3位は素晴らしい。オリンピックとなるとどうしてもナショナリスティックになってしまうのは致し方無いこと。アスリート達の頑張りがそのまま伝わって来て感動してしまう。男子ゴルフでは松山選手が優勝を寸前にして、しかも、最後は、2位、3位?という瀬戸際に立つ大試合をやってのけて興奮は最高に達した。結果的に彼は銅を手中にした。あっぱれである。女子も山下が優勝を目の前にしながら、結果的には4位Tに終わり、これは悔しさが残った試合であった。この2週間は本当に緊張と感動の連続であった。感動をありがとうと言うしかない。



8月24日(土)本来なら日光清風塾が企画した「グランピングの夕べ」が実施される日であるが、諸事情により、来年にキャリーオンすることになり、既にアプライ済みの米国人Kurunichさんを我が家にお招きすることになり、本日3歳のVeda, 10歳のNovakとEdrienne,Robert夫妻がタクシーで我が家に到着したのが11時半。お天気次第ではあったが、小さな子供連れということで庭でランチをする予定であったが、余りの暑さに結局室内でランチをすることに。ムナさが居てくれたことは大助かり。サウンドミュージックに出てくるようなあのいたづらっぽい顔でジュリーアンドリュースに怪我した小指を見せる一番のちびちゃンにそっくりのVidaはとても可愛かった。歩く人形のよう。最初は斜にかまえていた彼女はやはり子供。だんだん騒々しくなっていったことも可愛かった。夫妻は夫婦でパイロットだという。aviationの世界で知り合った二人。Edrienneはミズリー出身、Robertはもともとセルビア人。彼の方は声楽もやり、大学に入る時点で、音楽の道と航空学の道と選択に迷った時期もあったそう。今では音楽は趣味。しかし、我が家のピアノを見て、弾き始め、帰れソレントを歌い始めた。さすがである。一週間前に日本に子供たちを連れて来たばかり。夫人の方は7月に既に来日していて神奈川で日本語研修をやり、今回ご主人が合流して東京に住まいを定めた。あと一年日本に滞在するそうだ。日本語は夫人の方は一年前からアメリカで始めた由で、基本的なコミュニケーションは取れる様子。なかなか活発そうな女性と見た。日本滞在中に再会出来そう。(夫が11月10日のHCを誘っていた。)

2024年7月31日水曜日

激暑の夏

 7月31日(水)

今年の梅雨期は関東地方は6月21日に入梅し、2週間ほどで梅雨明けとなったものの豪雨があちこちで続き、酷暑の中での災害が多発。線状降水帯という現象が頻繁に起き、日本全土が猛烈な温暖化現象に見舞われている。35℃以上が続き、熱中症による犠牲者も沢山出ている状態。今年は孫達もそれぞれ来年は大学と中学に進学する年齢になり、夏休みは受験勉強が忙しくなって祖父母の所に来る時間も無さそう。10歳ですでにこの競争社会に突入し、昔のような子供たちが真っ黒になて夏休みを過ごすという時代は消滅してしまった。

Volunteer group of international interactionとしての日光清風塾が企画していた「Glamping festival in Nikko」は企画の発想は一年前からあったものの、実際に動き出したのが遅かったため、欧米人の参加者人数が目標に達せず、今年は中止とすることに。構想は理事会、実行委員会で検討してきたので、来年はスタートを早くして実行出来るようにしたいもの。7月28日に現場となるTorchに関係者がミーティングをしてこの決断にいたった。

今日は、KDDIさんに質問したことから、これまで投稿の編集に落ち度があったことを発見出来たことは大きな収穫であった。つまり写真を投稿するとお化け文字となって画像は出ず、文字もいつもとは違うはっきりしたものではなかった。編集作業のメニューに注目しなかたことが原因とわかった。これで又ブログが息を吹き返すことが出来るようになったことは明るいニュースである。

2024年6月6日木曜日

6月3日(月)

2024年6月3日(月) 五楽会(夫の大学同期会)の恒例の集まりが今年は浅草の屋台船で開催されたので、大胆にも参加させていただいた。屋台船なるものに乗ったことが無かったので、良い機会と捉えて便乗させていただいた次第。 夕方6時~8時半までの2時間半、墨田川を浅草吾妻橋から出向して、お台場で滞船するコースであるが、」途中の高層マンション風景や、フジテレビのあの有名な建物、レインボーブリッジを眺めながらの悠長な一寸した船の旅。総勢15人が参加していて、彼らは乗船するとすぐ飲み会が始まる。 遠くは熊本や広島から来た人もいるが、80歳が一番若くて、皆、それ以上。大病を乗り越えて、以前の飲食に戻っている人、現在は介護を受けている身と言う人もいたが、それなりに元気で、こうした集まりには何とか出かけて参加していること自体、素晴らしいと思った。昔の学生時代に戻って、平等に忌憚なく話し合えるのが魅力であろう。それぞれ、それこそサンセットブルバードを出来るだけ元気に、おおらかに歩んでいる姿が見えて、May we keep going on and on! 「琵琶湖周航の歌」を二度も斉唱して士気を高め、そぼふる雨の中、墨田川就航は無事実現出来た。飲物は飲み放題で皆満足だったのではないだろうか。食事は期待していた揚げたて天ぷらはもう一つであった。 私は時間的に間に合ったので、一人で日光へ戻ったが、夫は翌日も彼らと昼食会(一水会と称して、東京近辺在住の同期生の月例会であるが、今回は五楽会と重なって、合同での昼食会となり、浅草のどじょうを食べる由)があるため、多摩へ。今回、来たくてもパートナーの介護で離れられないという人もいて、我々がそういう年齢になってきていることをつくづく思い知らされる機会でもあった。

5月11日、12日(母の日)

この日は、我々にとって人生最大の経験を得た忘れられない日となる。夫が現役時代、在外では二度もご薫陶をいただいた10年大先輩の小和田大使に、5月11日、宇都宮共和大学で学生を対象にした特別講演をやっていただくことが出来たのである。「冷戦後の世界と日本」というテーマで響きは固いが、1時間半の講演を休憩なしで、淀みなく、言葉をかみしめて丁寧に優しく語られて、聴衆は集中して聴いていた。かねてからの夫の願望であり、思い切ってアクションをとった結果、栃木県下の五つの大学の共催を得て、日光清風塾が事務局となり実現した大プロジェクトである。夫の行動力に改めて感じ入りながらも、サポート役としてどこまで意にかなうか、一連の流れの中で、途方に暮れることもしばしばだったが、同じ方向を向いていれば、時間が解決してくれることも分かった。一人では出来ないことを、いかに同志を得て協力をしてもらえるかが全ての鍵である。リーダーシップとは何か。ぶれない目標に熱意を持って挑む姿にどれだけ共感し、理解できるかどうかである。説得力もあるが、何より、誠実さと目標に挑む熱意がリーダーシップの強さを決めるのだと思う。いろいろ大変な思いもしたが、良い結果が出て本当に安堵した。 翌日はハンブルだが、豊かな新緑に囲まれた我が家にご夫妻でおいでいただくことも出来たことは最高の慶びであった。この11日と12日だけが前後の雨の日に挟まれて、新緑薫る最高の五月晴れに恵まれたことにも大感謝である。多忙な東京暮らしを半日ほど忘れていただき、少しでも、田舎の、きれいな空気をエンジョイしていただきたいという我々の願望が実った日となった。プチクール(小さな我々の合唱隊)の仲間にもランチに加わっていただき、合唱を披露したり、盆点のお抹茶を東京からの友人にやっていただいて、くつろいでいただいたり、20年近くかけて手掛けた手造りのワイルドな庭を一寸だけ散策したり、我々のおもてなしを素直に、親しく喜んで受けて下さったご夫妻に、我々一同も感激であった。ご高齢ということも忘れて、あれやこれや、おもてなしのつもりが、一寸ご無理を強要させたかもという懸念もあったが、最後に日光駅でお見送りした時は、本当に喜んでいただけた様子に、涙ぐむほどに感激した。握手から、抱擁、さらに頬ずりまでして、それこそ夢心地であった。「竜宮城に居たみたい」と印象をおっしゃっていただいたことが何かにつけ、今でも胸をよぎる。

2024年5月27日月曜日

「朝日」に進む道 可能な限り歩く

2024年3月30日付け投稿 私のサンセットブルバード 
  三十年ほど前、ニューヨークで「サンセットブルバード」というミュージカルを観劇したことがある。サイレント映画時代のスター女優の末路を描いたものだが、最近この題名が妙に気になる。 私の長年の友人達も最近あちこちの身体の故障を話題にする。実際問題として深刻な場合も多く、お互い同情したり、励まし合ったりするが、先細りの人生を思うより、まだまだ面白いこと、楽しいこと、感動する事が沢山あると思いたい。 日光に住み始めてから十八年。この美しい自然の中で、毎日一時間ほど同じリズムで歩くことが私の健康生活の原点になってきた。サンセットブルバード(夕日に向かう道)の響きを感じながらも、サンライズブルバード(朝日に向かう道)を可能な限り歩き、楽しみたい。

2024年4月28日日曜日

GWに突入

5月12日(偶然にも母の日)
O大使ご夫妻をお迎えして
プチクール合唱隊の演奏

今年のGWの前半は27日の土曜日~29日の月曜日まで。後半は5月3日の金曜日~6日の月曜日まで。続けて休みを取る人は9日間の休暇となる。 1ドル=158円まで円安になって海外へ出かける人は少ないと思いきや、それでも殆どコロナ前まで復活している。それより、インバウンドが大盛況である。海外からわんさと観光客が円安効果を利用して訪れている。日本の観光地は大賑わいとなっている。日本文化がこれほど派手に、広く、深く、外国人に関心を持ってもらうのは今まで無かったことである。体験型観光が流行っているようだ。AIの進化により、言葉が出来ないことは今や障害にはなっていない。意志疎通はAI機器を使ってどんどん出来るし、検索も自由自在。スマホ文化が全ての役割を制覇。・・ハラという言葉が数えきれないほど出回り、意味不明でついて行けないことが頻繁にある。この瞬時のキャッチャップに戸惑うことが多くなった。加齢という言葉が常に頭をよぎるようになった気がする。体調の変化でもその思いがつきまとう。これではいけないと歯を食いしばって、そもそも私が、そういう世界にいるということに実感が無かった筈である。3月30日の新聞に投稿記事が掲載されてまだそんなに日が経っていないのに、少し、サンライズブルバードに向かって歩くペースが落ちたような気もする。親友が体の不具合に直面したこと、月一のネットでのお喋り会も、話す勢いが何だか消極的になりがち。一方で、夫がイニシャチブを取って立ち上げた5月11日、12日のプロジェクトのカウントダウンがスタートして後、2週間に迫っている。O大使ご夫妻をお迎えるにあたって、欲張ったスケジュールになってしまって、今反省しながら修正に漕ぎつけた。1か月前から寝ても覚めてもおもてなしの試行錯誤が頭を駆け巡り、天候の急変で寒暖の大きな差も手伝って、風邪を惹き、喉の痛みと鼻に頭は朦朧。ついに林先生のところで注射を2本。4種類の薬を処方して貰った。熱も微熱が出てしまった。今日あたり、少し回復した気がする。O夫人との電話とメールのやりとりで気持ちが楽になった。3日前には益子の友人のところに急遽雨の中を車で馳せ参じて夫人のためにアクセサリーを求めた。気持ちが少し楽になった。由記子さんの誘いでナンドール美術館にも寄って来た。小方さんに久しぶりでお会い出来た。 明日は第116回目の講話会がある。睡眠を取っておこう。

2024年4月8日月曜日

4月に突入

4月8日 いよいよ新学期の始まり。この半月は開花予報で賑わった日本列島だが、昨年と比べると一週間は遅い。それでも桜が開き始めると、辺りはパット明るく輝き、世界がまるで違って見える。都心は今がピークで大勢の人出で大賑わいの様子がテレビの映像から伝わってくる。季節は文句なしの春爛漫に突入である。 そんな中、我々は5月11日のMr.Oの特別講演会に向かってその準備で楽しみと同時に緊張が高まってきている。本日ようやくチラシの原稿が出来上がった。表面と裏面を備えたA4の一枚紙だが、誤植は無いか、内容はこれで良いのか、念には念を入れて、夫が関係者とすり合わせに余念が無い。現役時代と違って、すべて自分の力量の限界を感じつつも、それをサポートするべくこの年で挑戦出来ることはありがたいと思うべきだろう。最後の特別なプログラムに漕ぎつけて不行き届きの無きよう(これは絶対あり得る)、しっかりしなくてはとの思いがプレッシャーにもなるが、前に進むしかない。一生懸命誠意を持って望むことである。 このプログラムが実現する運びになった時、Mr.Oから紹介された『学ぶこと』と『思うこと』という氏の教え子たちの思い出の記録が収録された本を読んだ。知恵と人材の詰まった圧巻の書である。凄い人ということに尽きる。Passion for Anonymity(誠実:清廉:正直:無名で仕事をする心意気)がモットーにある。 氏はかねがね四つの愛(Is)という表現を強く言われているが、その最初に出る言葉である。つまり①Integrity そして②Insight (洞察力)③Intellectual curiosity(知的好奇心)④Individuality (個性)という四つのIで始まる言葉を掲げておられる。氏の教え子の一人が現外務大臣の上川陽子さん。氏は外務省の現役時代に毎週土曜日に駒場に通って講義をされていたということをこの本を読んで初めて知った。殆どの人が知らないのではないかと思う。人材育成教育である。何を教えるかが問題ではなく、問題にどう向き合い、どう学び、どう思うかという、まさに人材育成教育ということ。30年ぐらい外務省の激務をやりつつ、サイドでこういしょう人生目標を持ってそれを実施されていたというこのと凄さには夫も驚嘆した。氏の父君の優れた教育者のDNAを受け継がれていることも分かる。若い人達、教育に携わる人達にも是非読んでみて欲しい本である。

2024年3月12日火曜日

3月のインパクト②

3月9日(土)東京より大学生が2人やってきた。松本君と木口君、それぞれ東大と早稲田の一年生。目的は東京、日光、アセアン側の学生達10人ぐらいがネット上で今回はnatural disastersをテーマに議論する。大きくは環境問題であるが、その技術開発を日本が一方的に発信するのではなく、アセアンと共同で一緒に考え、アイディアを出し合ってプロジェクトを立ち上げる方向に持って行くはなしであった。若い学生達に未来をより平和な世の中にするにはどのように考えてどのようにアクションをとるか、を考える力をつけて欲しいというのが夫の願い。東大で既に立ち上がって活動をする、MISというグループの中に夫は入り、学生達を我が家に呼んで今回のようなネットでアセアン側と議論するのは3回目となる。キャンパスでも議論を重ねている。我が家に来た場合は、ただ、そのネットでの議論だけではなく、BBQをしたり、翌日にはスキーに連れて行ってリフレッシュさせている。宿泊させて、食事を提供して、彼らは刺激と新鮮さを味わいながら楽しんでいる様子なのが嬉しい。生かされた命を活かす努力は大事であると思い始めている。 そんな中、今回、彼らがスキーに行っている留守中に「考えること」と「思うこと」と題された本を夫に勧められて読んだ。凄いの一言。大先輩の頂点にある小和田恒大使の教え子達が大使の卒寿を祝して彼等が書いたエッセー、対談を編集した本である。その教え子たるや、今の外務大臣、上川大臣、シンガポール大使の赤松大使など、第一線で活躍されている知識人ばかりである。外務省時代の大使としてしか存じ上げなかった小和田大使の別の面の凄さを知って一層驚いた。現役時代から駒場で学生を教育されていたなんて、知る人ぞ知るの世界。忙しい現役時代にブレることなく、誠実に、一貫して、学生を指導しておられたということ。国際司法をテーマとされたのだが、それより、次世代を担う学生に学んで考える人間になることを願って人間教育に徹されたよう。国際司法裁判所で判事、所長として15年勤務されながらライデン大学でも指導された由。退任されてからはライデン大学と東京大学で交互に講演をされている由。日欧で指導を続けられている。正に大使の信条が根底にあるのではないだろうか。四つの愛(I)=Integrity/Insight/Intellectual curiosity/Individuality 御年今年9月には92歳になられる。

3月の大きなインパクト①

3月8日(金)宇都宮ライトキューブでの一般公開セミナーに夫と参加。講師は(株)オーリアルCEO(不動産会社)NPO法人アクセシブル・ラボ代表理事の大塚君平氏、コメンテーターとして済生会宇都宮病院栃木救命救急センター所長の小倉崇以先生による2時間のセミナー。講演の題名は「次のバリアフリー」~社会福祉の近未来~。「救命の”先”」~社会復帰への道のり~。 30代後半の大塚氏のプレゼンは内容も語り口も非常にクリアで目から鱗のインパクトを受けた。彼は不動産の仕事をスタートして間もなく不慮の事故で脊椎損傷を負い、障害者として車椅子の生活をすることになったのだという。そこからが凄い。立ち上がって、障害を活かして未来を切り開く。body sharing robotの開発、ハイテクを駆使して自由に行動範囲を広げられる機器の開発へのアイディア提供である。健常者では気が付かない視点から障害者がどんど気づきを提供する。障害者は遠慮することはない。多様性社会の一員として、行動できる世の中、社会の構築を目指す話であった。 小倉先生は命を救うことで終わるのではなく、命を生かし、生きる希望を与えることだと強調された。バリアレス社会復帰である。HAL(Hybrid Assistive Limb)ロボットスーツの開発。イノベーションの重要ポイントは生きていく希望が世の中のためのハイテク開発を促す。バリアフリーという言葉より、バリアレス社会こそ、寛容な社会。社会復帰の問題は心のバリア+物理的バリアが一緒にクリアして到達される。ありのままを表現できる居場所造りである。大変力強く、未来を明るく切り開く希望の持てる話であった。夫の「日本の技術は海外へ送る段階にあるか」との質問に、小倉先生は日本は次の段階への開発力は無いと。日本には研究者を育てる地盤が無いとのこと。このセミナーは9回目?とのこと。これから続くプロジェクトである。

2024年1月21日日曜日

源氏物語に嵌る

2024年1月21日(日)  長女朝子から、昔越中島時代(1978~1983)の臨海小学校で彼女の仲良しだった美子さんが、彼女の母親に端を発した源氏物語研究を独学で続けているという話は聞いていた。それも社会人になってからスタートし、かれこれ30年になるという。彼女の初版①「源氏物語原文分解分類法 心の宇宙の物語 千年の時を超えて」(2015年出版)を数年前に読んだ時、あの美子ちゃんが、それこそ宇宙に飛び込んだような凄いライフワークを見つけたものと感心した。訳者紹介の一文に、紫式部が、「思考と感性」の力で言葉の限りを尽くし,この世の全てを表現することに挑んだ「源氏物語」。その「情熱と孤独」に感銘を受け、原文の読解をライフワークにしているとある。  その後、執筆活動は続き、②「源氏物語54帖 紫式部の眼」を2018年4月に出版。そして3年後の2021年12月③「源氏物語54帖 現代語訳 紫式部の物語る声(一)」を出版。続いて2023年3月④「源氏物語54帖 現代語訳 紫式部の物語る声(二)」更に2023年12月⑤「源氏物語54帖 現代語訳 紫式部の物語る声(三)」を出版。恐るべき忍耐とその意気込みに圧倒された。この現代語訳シリーズは全12冊だと言っているのでこれからの道のりは想像以上であろう。応援しないではいられない。昨年暮れに帰省した朝子が美子さんから彼女の本が送られてきたのでお母さんにも読んで欲しいと言って置いて行った。 手元に②③④⑤が今ある。②をまず完読。③に入り、54帖の5帖(桐壺・帚木・空蝉・夕顔・若菜)分の現代語訳を美子さんのエネルギーを感じながら、美子さんの心情(つまりは紫式部の思考と感性)に思いを馳せながら読んでいるところである。実に超大作である。  美子さんのご両親が源氏物語研究をまず先にスタートされていたというから驚く。そもそも母親の睦子さん(越中島時代に同じ宿舎に住んでいたことから、お互いに知り合いだった)がご主人が現役の時に京都に在勤された折、行政区の公民館での源氏物語講座に参加されたことから、睦子さんがまず源氏物語に関心を寄せ、国家公務員だった父親も退官後に興味を覚え、第二、第三の人生を歩む中で、専門とは余程遠い紫式部研究にご夫妻で一緒に研究を始められたという。その後、2009年より殆ど2年おきに単独または共著で出版を重ねて約10冊を世に出されている。専門家を超える作業を続けられているという。最新作、2023年11月出版の「源氏物語探訪 ゲーテとともに」をアマゾンから取り寄せ、それも読んだところである。ゲーテとの思考哲学の類似点を抽出し、解説をするという新しい視点で紫式部が驚愕的に崇められている。(美子さんはベートーベンとレオナルド・ダビンチと紫式部を並べている。) 他に類をみない親子のライフワークに接して、本当に感銘を受け、大きな刺激を受けている。  ただ、美子さんとの書簡のやりとりで、彼女がいかに孤独と闘い続けているかを知り、彼女の気持ちのあり方に心を寄せながら彼女の力作を丁寧に読み進めているところである。健康に気をつけて、自分を大事にして、大仕事に挑んで行っていただきたいと願いながら。  折しも、今年のNHK大河ドラマは「光る君へ」源氏物語の作者、紫式部の物語である。大石静脚色。今日で3回目であるが、紫式部がどのように描かれて行くか、美子さんの著作で得た知識、情報も手伝って、大きな関心を寄せながら見ている。  

2024年1月8日月曜日

2024年令和6年のスタート

新しい年がスタートして一週間が経過した今、やっとパソコンの前に座る。 1月1日 大晦日に遅くまで「生さだ」の番組を観て、気がついたら朝の3時。あわてて就寝したものの、6時には起床。元日の朝餉を整えるべく厨房で作業して9時には食事が出来るようにスタンバイ。しかし、夫もムナさんも起きてきたのが10時過ぎ。年末から来ていたムナさんも一緒に年始を迎え、神棚に拝礼してお節料理をいただき、ゆっくり初詣に出かけた。市営の駐車場はタイミング良く、出庫する車の後にすぐ入れられて、ラッキーな出だしに安堵。快晴に恵まれた元日の朝の山内は意外に混雑していない。アジア系の外国人が多

いのと欧米の人達もかなり居たが、一般的に、若い人達が多く、晴の着物姿は皆目無かった。着飾った様子もなく、普段の出で立ちで、沢山並んだキオスクが賑やかだった。恒例の経路でまず、輪王寺に詣でる。輪王寺では珍しく、元日光ユネスコ協会会長の武田夫妻に遭遇。数年振りだったので、なつかしく、お互いに、年は重ねたものの、元気にお話が出来た。東照宮では破魔矢をゲットし、二荒山神社に流れて、お参りをする。久しぶりのそぞろ歩きは好天気に恵まれた中で気持ちよく感じていたところに、今度は以前所属していた日光混声合唱団のメンバーの佐藤さんに遭遇。古いお札を焼く一角でお仕事をされていた。あれから、二荒山神社のスタッフとしてお仕事をされているというお話だった。 二荒山神社の参道を下って帰路に。夫はかなり歩き疲れた様子で、一挙に帰宅。遅いランチの後、ムナさんは庭の土木作業の手伝い。今回は喪中はがきを出したことから、年賀状は出さなかったことから配達された年賀状の整理は無用。淋しいような、助かるような。昨夜は殆ど寝ていなかった関係で昼寝をすることに。しかし、大事件が。4時過ぎに、携帯のアラームが発生。地震警報である。寝ぼけ状態で、大地震の発生を知る。能登半島が震源地なのに日光のこのあたりまで揺れたので、相当大きいことを感じた。テレビの報道を観て、このめでたい元日に、故郷に帰省していた人達、観光客も巻き込まれたに違いない。楽しかった筈の元日が一瞬にして地獄に。まさに青天の霹靂の出来事が起きてしまった。被災された方々を思うと心が痛む。 2日は夫とムナさんはスケートに。私は厨房の仕事をして初歩きに。公園はいつもとかわらず、快晴の天気に恵まれて暖かいウオーキングだった。帰宅したら、彼らも帰宅していて、すぐに昼食。夫は足が痛くて、結局スケートはもう不可能と悟ったよう。哀れなるかな正男さん。ムナさんは小さい時にやった経験があることから、さすが、自転車同様、感覚を取り戻して、楽しんだ様子。ランチ後は、庭の地面下に電線コードを設置する作業に専念。暗くなる直前に完了。ホッ!! 3日は午前中は庭で切り株を使って木への登り階段をみんなで作る。木の枝に座れる場所を作って、展望台が出来上がった。夫の遊び心が招いた作業だったが、リスキーながら面白いと思った。ゴルフ場が一望出来る。写真撮影成功。そしてゴルフレンジに出かけて、初練習。ムナさんにとってはゴルフクラブ初握り。彼女は何事にも挑戦意欲があり、ゴルフにも関心をもったよう。さあ、どうなるか。 一端帰宅して昼食を取り、ムナさんは3時過ぎの電車で東京へ帰って行った。翌日から授業がある由。我々は、土沢へ新年のご挨拶に。甥の孫に初対面。生後一カ月。藍と書いてらんと読ませる名前とか。しゃれてるなー!おちびさん達にお年玉をあげて一段落。 4日は二人で初打ちat Linehill。スコアは良くなかった。 5日、新聞で渡邊弘子さんの訃報を知って驚愕。神林さんに電話で様子を伺ったところ、昨年末、急に体調を崩して、そのまま帰らぬ人に。心質性肺炎が病名。心室が繊維化して呼吸が困難になるという恐ろしい病気。急性であるのが死亡率が高い由。信じられない思いだった。10月末のソロプチミスト主催ゴルフチャリティーコンペで元気な姿を見たのが最期になった。人の命って実にたわいないとつくづく思った。 夕方、夫とご自宅を訪問して弔意のご挨拶。いろいろ詳しいお話を伺って、病院の対応に一寸ミスがあったのではないかという不信感を持ってしまった。 8日、告別式に参列。(第二月曜日にあたるこの日はコーラスがあったが欠席)