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2012年3月26日月曜日

三毛子 ⑧

 飛行機は大変だった。まず前日に成田のそばにあるホテルに泊まったが、そこでは客室にわたしは入れてもらえなかった。宿泊する人達の大きなトランクを預ける部屋にわたしもかごごと入れられた。わたしは荷物扱いだった。わけもわからず一人ぼっちにされて、わたしは夜通し泣き明かした。あの時は逃げ場がなくて本当に死にそうだった。かごの中でひたすらひっかきながら泣き通しであった。それでも翌日は朝早く、おかあさんが迎えにきてくれた。おかあさんもわたしのことが心配だったのだろう。「ミーちゃん!大丈夫!」と声をかけてくれた。まだかごから出してくれない。ただ、トランクルームから出て、検疫ルームに運ばれ、そこでもう一度身体検査をやることになった。その時は、かごから出してもらえたが、おかあさんがすかさずトイレを用意してくれたのでやっと生き返ることが出来た。苦しかった。殆どまる一日用を足していなかった計算になる。よく我慢できるものだと自分でも驚いた。

 検疫が無事終わって、やっとみんなと一緒の行動が許された、といっても依然としてかごの中のままである。出発ロビーで待機して、いよいよ飛行機に乗る。そばにおとうさんやおかあさん、お兄さんもがいるから少しは心強いものの、飛行機の中でもかごの中のままである。トランキライザーとかいう精神安定剤を飲まされたみたいだが、わたしの精神はますます高揚していった。

 最初はビジネスクラスのおかあさんの座席の下にかごごと置かれてこの先どうなるのかと不安であり、自由の身になりたい一心で、泣き叫んだ。かごのすき間から手を出し、ニャーオ、ニャーオと泣き続けるのでおかあさんは周りの人達に気が気ではない。でもここでおかあさんにとってはラッキーな顛末になったことがある。それは、座席がアップグレードされたことだ。でもわたしにとっては変わりない。席を移ってもかごの中の猫である。まわりが一寸広くなったおかげでわたしは、かごのすき間から、思い切り手をさしだして、ボクシングを始め、声がかすれるまで大声で泣きわめいていた。食べ物も水も極力少な目に与えられ、睡眠も精神が高ぶったままでの長時間のかごの猫は、その後の長い人生を耐え抜く最初の試練を経験したと言える。ホテルについてやっと十分な食料と水が与えられ、狭い空間ながらもうかごの中にいる必要がなくなった時は、新しい環境に立ち向かうエネルギーが湧いてくるのを覚えた。おとうさんもおかあさんもお兄さんも、新しい環境に立ち向かっているのだから、このわたしだって出来るという思いがあった。







2012年3月25日日曜日

日光混声合唱団


公演の一番バッター「一本の木」を
力強く歌い上げる日混コーラス隊
  今年の3月25日は無事だった。昨年3月に公演が企画されていた日混のミュージカル「ぞう列車がやってくる」が今年公演される運びとなった。東日本大震災から一年が経ち、まだまだ復興真っ只中の時ではあるが、風評被害を受けている日光で、それを払拭する意味でも今回の公演決断は良かったと思っている。
 一部の日混のコーラスでは、まず「一本の木」を歌い上げた。練習している段階から、日光の東照宮奥ノ院に毅然と立つあの杉の大木にぎっしり詰めた自然の力を、人間の繊細な優しい気持ちでよく歌い上げていると感動していた曲である。


「ぞう列車がやってくる」の最後の場面

 それが、驚いたことに、終了後にその作詞された方に出会えたのである。まさかと思う程、チャーミングで可憐な若い女性であることがわかって又驚いた。しかし、皆に紹介されて、マイクを持たれた所、又そのご挨拶が何と強い心のメッセージを秘めていたことか。心の逞しい日本女性に又出会えたと嬉しくなり、後でご挨拶したところ、本当に、謙虚な大和撫子という印象をいただいた。

心はダイナミックで外見は可憐な作詞者
フルリーナさん

 今日は、公演自体もいかに団員一同本番に強いかをしめすような良い出来だったように思う。日光少年少女合唱団との共演も素晴らしい。可愛い素直な、目の輝いている少年少女(最年少は小学一年生とか。本当に可愛い。)を前に、殆どがわたし達夫婦も含めて爺婆隊で編成している団員がどんなに元気づけられたことか。このステージからは、日本の将来は大丈夫と歌いながら嬉しくなった。これを可能にした指導者の実力は勿論、その熱意と尽力には感動する。関係者全員がいろいろな形でサポートしていたことにも心を打たれた。愛が溢れた音楽の力を再確認した一日であった。http://blogs.yahoo.co.jp/fururina2000/65183584.html 
http://www.keiko-nikko.blogspot.com/

2012年3月24日土曜日

三毛子 ⑦

一章 ニューヨークへ(1993~1996)

 二人のおねえさんをそれぞれ京都と東京に残して、おとうさんとおかあさんがお兄さんとわたしを連れてニューヨークに転勤したのが二学期の始まる直前であった。アメリカではまさに新学期が始まる時で、おかあさんが待ったなしで学校の手続きに奔走していたことを覚えている。おとうさんは国連の日本政府代表部というところでの仕事が始まり、わたしたちの住む所も探さなければならず、みんな忙しい。

 お兄さんの学校が決まって、週末だけ家に帰ってくる学校生活が始まった頃にやっとわたしたちのアパートが見つかった。それまでの一か月は長期滞在型のホテル住まいで窮屈な環境にわたしとしても必死で耐えしのんだ。ホテルは勝手が違い、落ち着かない。毎日のように朝、みんなが出かけてわたしが一人で留守番していると、メイドさんとかいう人が勝手に入ってきて、掃除が始まる。わたしはベッドの下に隠れてじっと待つ。簡単に片づけて部屋とバスルームをきれいにするとバターンドアをしめて行ってしまう。わたしがいることを知っているはずだが、無頓着で探してごきげん伺いなど全くしない。わたしもそのほうが緊張しなくて良かったが、でも誰も相手がいないというのもさびしいものである。耳を澄まして、おかあさんが帰って来るのを待つしかなかったので、昼間はとにかく気の向いた所でひたすら寝ることに集中していた。日本からアメリカに来るときの飛行機の中と比べたらてんでくらべものにならないくらい身が自由でのんびり出来た。



2012年3月20日火曜日

三毛子 ⑥

 お母さんはJICAの仕事をいったんストップ。ニューヨークへの引っ越しの準備でかなり大変そうだった。わたしに出来ることは何もない。お母さんが動き回って一寸一息つくときは、すかさず膝の上にのって息抜きをさせてもらうのが唯一出来ることだった。家の中はダンボール箱が積み重なって行き、わたしにとっては落ち着かなかったが、又、部屋の様子が変わって行くことが面白く、すき間をあちこち偵察して楽しんでいた。お母さんが、出かけることも多く、そんな時は、余計に雰囲気の変わった家の中をあちこち歩き回り、家の中を一番知り尽くした気になっていたところがある。どこかにしまいこんだ荷物が必要になって、また探し回っているお母さんを見ていると、「ここにあるよ!」って教えてあげたくてもそれが出来ない。無力感極まりないことが多々あった。


 やがて、ニューヨークへの赴任の日取りが決まると、逆算して段取りが決められていった。お父さんの生家や親せき、お母さんの生家と親戚、それにお母さんの叔父さん家族にまず挨拶回りに行く。運送屋との交渉。お兄さんが入ろうとするアメリカの高校の情報集めなども必要となってきた。海外にまるごと引っ越しの大変さをわたしはしっかり観察した。着るもの、台所用品、日用品、装飾品、本などが主だった。家具は現地で調達するらしい。それにしても身の回り品だけなのに、何て荷物の多いこと。現地には無いかもしれないという懸念から余計な荷物もかなりあったに違いない。

 そして、私にとって一大事だったのが、予防注射。避妊の手術をしたときに、麻酔の注射はしたことがあるので、注射はそんなに怖くはなかった。それにしてもアメリカに入国するためにはワクチンを打って、その証明書が必要ということで逃げるわけにはいかない。観念して予防注射をしてもらった。痛かったが、一瞬の出来事でおわってしまった。きちんとした証明書を貰い、私に関しては他には何も義務付けはなかった。ただ、飛行機の中がどんな具合なのか心配であった。おかあさんがケンドン風というか、ロベルタ風というか、色のコンビネーションが鮮やかでしゃれた携帯用かごをどこかで買ってきてくれた。私を運ぶためである。これも初めてのことで、果たしてその中でずっと耐えられるかどうか、自信がなかった。身辺があわただしくなって、いよいよ観念する時がやってきた。



2012年3月17日土曜日

教養

雨で悪天候化した中、市の人権・男女共同参画課が主催した男女共同参画社会づくりフォーラムin日光というイベントに参加。講師は昭和大学学長の坂東真理子先生。講演の前のアトラクションとして足尾和太鼓チーム”銅(あかがね)”によるパフォーマンスは単調な演奏ながら演奏者のバラエティーの豊富さが力強いエネルギーを彷彿とさせた。最年少は4歳というキュートなボーイから60歳を超えたシニア層まで年齢に幅があり、人員も過疎化した足尾のイメージとはほど遠いものであった。小中高の生徒学生が輝いて見えた。好感度の高い演奏だった。

講演の方は、スパンコールで輝くデザインをあしらった黒のインナーの上に真紅のジャケットをお召しになり、黒のミニスカートに黒のストッキング、そしてハイヒール姿で坂東真理子先生が溌剌としたお姿で登壇された。持ち時間1時間半の間、ずっと立ったままで「おとなの品格」という演題にそって断片的ではあるが淀みなく話された。東大を1969年にご卒業ということなのでまだ60代半ばの筈。34年間公務員をされた後、いろいろな経験を積まれ、「女性の品格」を経て今や「おとなの品格」を語られている。今日のお話の要旨は次の通り。

品格のある大人として成長するための、人生後半期(40代以降ー子供達の教育が一段落する頃)の心得が列挙された。①学び続けること。②新しいことに常にチャレンジすること。③新しい友人の輪を広げること。④良い生活習慣を持つこと。⑤おしゃれ意識を持つこと。
そして視野を広くして外を見る心のゆとりを持ち、広い世界で自分の存在感を知ることであり、それは自分を客観的に見ることにつながり、他者を思いやる成熟した人間が形成されていく。

大人の仕事として、①次世代をしっかり育てること。自立できる子供を育てること。IQよりEQが大切ということを理解することであろう。

先生のお話の内容は私も常々思っていることであり、改めて我が身を振り返り姿勢を正すきっかけとなった。

講演終了後、先生をお訪ねしてご挨拶出来たのは良かった。

2012年3月16日金曜日

三毛子 ⑤

 普通ならペットを飼い始めると、とりあえず動物病院に連れて行って健康診断をするものだが、ここではみんな健康であることが当たり前のようなところがあって余り気にしない。わたしものんびり、マイペースでやっていくことに決めていた。ところが、生後八か月の頃、本人の承諾も無いまま、わたしは突然病院に連れていかれた。何と、避妊の手術であった。男性を思う気持ちが育まれる前の段階でやられてしまった。従って、今にいたるまで、わたしは恋愛感情なんて知らないし、性教育も受けていない。それだけ人生経験は不足していると思われる。男性を見ても何の感情も湧かないし、面倒なトラブルをおこすこともない。さっぱりしたものである。

手術の翌日帰宅してベッドでぐったり。
  お姉さん二人とお兄さん一人の中で、わたしはまさに何の悩みもなく、天真爛漫に成長していった。多摩の家のベランダは最上階にあり陽当たりがよく、晴れた日にはベランダの鉄格子の間から多摩の丘陵地を眺め、遥か遠くには富士山さへ見えることもあった。春には眼下に桜並木が広がり、眼の保養には抜群の所にあり、よく寝そべって日光浴をしたものだ。

 ところが、一歳を過ぎて一、二か月が経ったころ、我が家に異変が起きた。何だかニューヨークという言葉が飛び交い始めた。身辺があわただしくなり、わたしも何だかそわそわしていたように思う。おかあさんが電話をあちこちにかけて忙しく動き始めた。お姉さんたちは日本に残り、お兄さんだけおとうさんとおかあさんと一緒にニューヨークに行くというような話になっているらしい。やっとそれがおとうさんの仕事の関係でニューヨークに引っ越しになるということがわかってきた。わたしはおかあさんの動きにまとわりつきながら、「わたしはどうなるの?」と気が気ではない。最初は「ミーちゃんは連れて行けるだろうか?」というのがおかあさんの心配になっていたが、アメリカは動物愛護国でペットは意外に簡単に同伴できることが分かった。わたしを一人置きざりにしないことが分かると、わたしの身の回り品もしっかり準備をしてくれることを信じて足手惑いにならないようおかあさんの動きを静観することにした。





2012年3月14日水曜日

家族 そして震災記念日



家族の目標

3月5日から中国西安に出かけていた夫が昨日無事帰宅。西安の大学で日本のメディアについて講義をしてきたわけだが学生との交流と地域の視察も短時間でやってきたようで、まるでこの一週間満タンになった経験を背負っての生還と言うべきか。私のこのリラックスした一週間に対して緊張感の濃さが全然違うと感じることしきり。いつまでも学ぶ姿勢を崩さない夫に改めて感心。今度ある女性団体の会合の折、夫は講話を約束していたが、演題がすぐ決まった。「世界は広い、学ぶことは難しい、だから楽しい!」

 My husband came back safely from his one week trip in Xian, China. He had been there since March 5th to conduct his lectures on Media in Japan three times at the uniersities. He was also involved in friendship activities with young students. Being back home, he looked heavily loaded with lot of new exciting experiences in contrast with my relaxation during his absence. He never loses his interest in learning knew things. His everlasting theme for living is "The world is so vast and difficult to learn. That's why it is enjoyable to challenge it!"

今日又感動したことが一つ。今や世界的に活躍する名指揮者、佐渡裕さんが企画し実行された東日本大震災追悼コンサートである。コンサートはメモリアルデイにパリ・ユネスコ本部で行われた。昨年被災地である釜石を慰問されたことがきっかけで、岩崎昭子さんという仮設住宅に住みながら、地元の復興に立ち上がっておられる方との出会いがきっかけ。この追悼コンサートにその方を招かれ、ステージ上で被災された方達を代表して被災地からのメッセージを発信された。残された地元の人たちが子供達共々しなやかに立ち上がり、自ら復興に向けて動き始めている様子がNHKの映像で流された。「子供達が大人になる頃、ふるさとをよみがえらせるのが夢」との強いメッセージに感動。佐渡裕さんは「被災地での指揮を」と言ってベルリンフィルで指揮された指揮棒を岩崎さんに渡されたという。まさに岩崎さんは被災地の指揮者という表現を何度も噛みしめている。

 Today I got impressed with one more story about the Memorial Concert planned and conducted by a worldwide wellknown conductor, Mr. Yutaka Sado, to commemorate the Higashi Nihon Big Disaster occured a year ago. When he was visiting those attacked areas to share the sorrow right after the earthquakes, he encountered Mrs.Akiko Iwasaki, one of the victims herself, who had been leading and ecouraging those people fallen in the disaster. She herself lost her house but she kept smiling face to encourage the people suffering from the huge shock.

 Mr. Sado invited her to his concert held at the UNICEF Headquarters in Paris. She was given a chance on the stage in front of the orchestra to address her message on behal of her comrades in her home town. She read her message loudly and clearly. "Our home town should be reborn by the time our children will be grown up." Mr, Sado handed his conducting stick over to her so that she could donduct the reconstruction works of destroyed towns for the sake of the victims. The expression that Mrs. Iwasaki is now a conductor of the attacked area has been staying in my mind since then.

2012年3月12日月曜日

三毛子 ④

 わたしは、次女の康子おねえさんへのプレゼントであったが、結局、わたしの身の回りの世話をしてくれたのはおかあさんである。ダンボール生活から卒業して、家の中をパトロールするようになると、みんな、おもちゃとして、アクセサリー的にわたしをかわいがってくれた。メゾネットになった三階づくりの家だったので、階段が二か所にあり、最初は上ったり下りたりするのに骨が折れたが、半年もすると、簡単に家の中を走り回るようになっていった。小鳥のようにおねえさんの肩の上に乗ったり、ピアノの上からみんなを見下ろして得意に遊ぶようになり、人間だけを相手にしながら天真爛漫に河合家の一員となっていった。

 家族はそれぞれに忙しく、おとうさんは国際関係の仕事をしていて、よく海外出張に出ていたし、おかあさんも海外からの研修員相手の仕事を時々やっていたし、子供たちはみんな学校が忙しかった。仕事のないわたしだけがいつも留守番をするはめになったが、一日中一人でも平気であった。これも猫の優れたところである。そんな時はゆっくり静かに睡眠をとっていれば問題なかった。

 最初は水とミルクが与えられただけだと記憶しているが、そのうち小さく砕いた魚の肉とか鰹節をもらうようになり、どんどん成長していった。おかあさんは、何気なく食べるものを出してくれる。でも、いつも「ほら、ミーちゃん。おいしいわよ!」と言ってわたし専用のお皿に何かのっけてくれる。匂いをしっかり嗅いで、危ないものではないかどうか確かめて、慎重に食べるのがわたしの生まれつきの習性。量もほんの少しで、がつがつ食らいつかないところも生まれつき。沢山食べてなくても運動は抜群にやり、家の中をダッシュして駆け回っていた。食器棚の上にもへっちゃらでジャンプアップ出来た。家族が食事をしている時など、上から家族を見下ろす様が羨望の的になったりした。

 

2012年3月11日日曜日

東日本大震災 あれから一年

あれから一年。速いと感じたり、遅いと感じたり、メディアの真剣な報道を見つめながら被災地に思いを寄せている。本当に日本人は粘りがあり、底力がある。被災地で困難に直面しながら立ち上がろうとしている人達を誇りに思いながら、思いだけで手が差し伸べられていない自分をはがゆく思うばかりである。被災した幼い学童でさえ、出来ることをやって周りに元気を与えている。義援金はかなり集まり、物資も届いている今、今大事なことは手をつないで一人では無いということ、周りの人達も思いを寄せていてくれていること、みんな繋がっているという思いをしっかり持ってもらえるように現場に行って、なにげなく声をかけて気持ちを共有することかも知れない。
一年前の午後2時46分。忘れられない。金曜日のクラスが突然揺れ始め、並の揺れではないことを感じ、クラスとセンターの皆さん全員で動揺したことを。それがあの未曾有の大参事になっていったことを。
 世界が日本を見続けている。昨年の6月現在で126か国の政府からの支援を受けたという報告がある。これは史上最大の国際支援とのこと。1日100円以下で生活しているアフリカの国々からも一人10円、20円というお金を出してくれたそうだ。それほど日本は世界から最も愛されている国の一つということである。この愛のある支援に報いるためにも、世界の平和と震災復興の国づくりに政府も尽力して欲しいとこの日にあって強く願っている。

2012年3月8日木曜日

三毛子③

この一週間は夫が西安に行っていて、あちらの大学で講義をしながら学生達と交流に励んでいる。その間、石巻の被災地で頑張っているあるグループを応援に行くことも考えたが、今回は断念して、自分を総括しながら書き物に専念することにした。その一つが愛猫の自分史。今日はその③に入っていく。

三毛子の続き その③

 このようにして、わたしは東京都多摩市諏訪三丁目に住む中年夫婦の家に連れて行かれ、その家の養女となった。里親の名前は河合。河合家にはこの両親の他に、三人の子供がいた。長女は京都の大学に、次女と長男はそれぞれこの多摩の自宅から高校と中学に通っている。そもそもわたしは、この次女の誕生日プレゼントとしてこの家に運ばれてきたことがわかった。次女の誕生日は五月十五日。沖縄返還記念日なので絶対に忘れない。そう言えば、長男は一月十五日が誕生日で一昔前までは成人の日として祝日だったのでこれも忘れない。わたしの誕生日は四月二十二日。四月のニャンニャンの日である。これも特別の日で覚えやすい。従ってわたしは生後三週間ほどで河合家の養女になったことになる。子供たちはみんなわたしを見て、「かわいい!」を連発していた。早速、わたしの名前さがしを始め、いろいろ議論してどうどうめぐりをした結果、もとにもどって簡単な「三毛子」と命名された。雌の三毛猫そのまんまの名前がつけられた。みんな、わたしのことを「ミーちゃん」と呼ぶようになった。そしてわたしは河合家の四番目の子として存在感を持つようになっていった。

 最初は小さな段ボール箱に入れられた。おかあさんが箱の隅に水と砂場をちゃんと用意してくれた。わたしが頼んだわけでもないのに、そして、そにそのようにしつけられたわけでもないのに、わたしは砂場で用を足す運命が与えられた。この時から、一度もそそうをしたことがない。生まれてからずっと、間もなく二十歳になろうとしている今でも、これは自慢できる。人間にはまねできない猫の優れた習性であり、家族もそろって褒めてくれる。

2012年3月5日月曜日

日光清風塾 第12回塾長講話会

3月4日(日)
いろいろ行事が多い中、予定通り講話会を実施。今回のテーマは「世界の教育」。これは毎回実施するアンケートで一番要望の多いテーマであった。
前回同様、まず参加者から質問点、疑問点を出してもらい、それらに触れつつ話が進められた。
①先生の教育②秋入学について③教育の経済負担

 総論として二点があげられた。
○ 先進国は今や発展途上国の教育改革に猛スピードで追いかけられ 
  ている状況であること。
○ 教育は国際競争の時代に入って来ているということ。

アフリカのウガンダの例。IT技術の普及とITを駆使できる状況にあって、国に活力を与え、活性化してきている。旅の途中で出会ったユネスコの教育部長の話によると、先進国の教育は劣化してきている。北欧だけは別だと。インドの例。インド国内の工科大学のレベル上昇。入れない学生がアメリカのMITに行くという驚くべき状況になっている。中国の英語教育が凄い勢いで伸びて来ている。これは就職とも繋がっている。韓国も同じである。

先進国の教育は北欧型とアメリカ型に分類化出来る。
北欧型→時間をかけて基礎力をしっかりつけさせる。出来の悪い子をそのまま基礎教育を修了さ
      せるのではなく、時間をかけてレベルに達するまで指導。従って切り捨てがない。
      先生(指導者)の育成も時間をかけてやる。日本のように、大学に入って本腰で実際勉
      強する時期に就職活動に走るようなことはない。進路を決めて真剣に勉強する。しっか
      り勉強してきた先生は信頼される。先生を信頼した教育が徹底される。
アメリカ型→低学年ではやはり時間をかけてじっくり教育する。みんなが何となく大学進学するので
        はない。高等教育の段階で直接大学に進む者、社会人になって改めて大学に入って
        来る者、直接大学に入っても、途中で社会人になってまた戻ってくる者というように多
        様である。 ただ、優秀な者は大学あたりから選抜されていき、格差が出てくる。少数
        のエリート教育にお金をかける。優秀な研究が出来る環境が与えられる。研究成果
        があると企業からの献金も集まってくる。そこから、また、新しい研究が出来る。とい
        う循環になる。アメリカは研究分野でエリート層が厚く、その分、格差社会を産む結果
        になっている。
日本はどうか?アメリカ寄り。しかし、政府の教育予算額が低いため、優れた研究が出来る環境と   は言い難い。日本は、北欧型とアメリカ型双方の優れた点を導入して、もっと政府予算を増やすべきだろう。北欧の教育支出への財政支援は大きい。日本は少ない。先生の育成も時間をかけてやるべき。日本の先生は雑用が多いのか、忙しすぎて能力が十分開発されていない。

今や、教育は一国内の問題ではなく、国際競争の時代に入っている。日本はかつて、秋入学の導入を試みたことがあるが日本という国の成長が目標であったことから、国内の事情(会計年度、就職時期等々)に合わせる必要があるということで結実しなかった。しかし、そうはいっておれない状況になってきている。欧米の制度に足並みを合わせる必要が出てきている。日本の大学のレベルも下降して来ている。教授陣の劣化も否めない。国際社会の中で教育を考えていく時代となった。

教育は人材育成であり、経済を活性化するための力となるもの。スエーデンの例。人が元気だから産業が元気。人材育成は産業の源である。ここでも教育費として国家予算が大きく投入されている。古い産業を守るためではなく、これからの産業を育成する人材育成に投資するということである。

教育の原点は読書。国語力(読解力)が最優先。これは家庭教育の重要性を説くものである。北欧の子供達の国語力は非常に高く、かつて優秀だった日本は9位にランクを下げてきている。教育を学校だけにまかせるのではなく、根本的なところでの家庭の躾と指導が重要である。