ページ

2012年6月29日金曜日

三毛子 (28)


六章 大阪暮らし(2003~2004)

 おとうさんとおかあさんは十月末に多摩に戻ってきた。途中でかつて赴任していたパリに寄り、飛行機のトランジットの時間を利用して昔を偲んできたそうだ。二人ともパリは何かしら古くて重厚な、それでいてしゃれた粋な文化の香りがするのが好きだとかで、この時も、大急ぎで街に出て、エトワールの近くのブリストロに入って美味しいワインをいただくべく昼食をとった。フリュイ・ドゥ・ラ・メールを注文。最初にパリで食べたフリュイ・ドゥ・ラ・メールが忘れられない。丁度おかあさんの誕生日にぶつかったので、一寸、二人でくつろいだのだろう。それに、これで日本に帰ったら、もう外に出ることは無いということもわかっている。一種の郷愁を味わいつつ、長かった外交官生活に感無量でアデューしたかったのだろう。本当にお疲れ様でした。

 多摩に戻ってきてしばらくいるのかと思ったら、おとうさんは最後の一年を大阪で勤務することになった。大阪大使という身分で、関西に駐在する各国総領事や経済界の要人、それに海外からのVIPと接触するのが主な仕事だそうだ。おとうさんはどこに行っても前向きに仕事を作っていたそうで、大阪でも関西の大学で講義をしたり、あちこちで講演の仕事を引き受けることになる。

 わたしにとって一番大事なことは、わたしはどうなるかである。でも、今までもそうであったように、猫というのは基本的には一匹で生きることを望む。たまに相思相愛になる猫もいるようだが、子宮をとってしまったわたしにはそれは全く関係ない。どこから来てどこへ行くのか先のことは心配せず、今いっときの自分を自由に謳歌する。

  とは言っても、長い間一人でいたので、出来れば今度はおとうさんとおかあさんと一緒に居たい。大阪は東京から五百キロの所だから、外国に行くのとは話が違う。案の定、おかあさんはわたしを連れて行くことをすぐ決めた。わたしは「ニャーオ!ゴロゴロ」と喜んで従った。

 おかあさんがすぐ決断したのは他に理由がある。おかあさんのおかあさん、つまり、わたしたちのおばあちゃんが丁度京都と大阪の間にある枚方というところに一人で住んでいたからである。このおばあちゃんは、わたしがまだこの世に生まれる前、一九八三年の夏、河合家がクウェートというところへ赴任する直前に、伴侶のおじいちゃんを病気で失っていた。それ以来二十年間、一人で頑張って生きてきた気丈夫な、頭の強いおばあちゃんである。そのおばちゃんには四人の子供がいるが、おかあさんがたった一人の女の子であり、末っ子である。おばあちゃんは、いろいろな意味で幸運なおかあさんを誇りに思い、娘が外国にいる時は、ひたすら手紙を書きあってお互いの経験を共有していた。その娘がこれから一年、お婿さん(おとうさん)と一緒に枚方の家に住むことが決まったのである。おばちゃんの喜びは大変なものであった。大使の宿舎に入らないで、おばあちゃんの所から通うと決断したおとうさんもなかなかの情人だと思う。

 それに、おばあちゃんは一年ぐらい前から、こたつで低温やけどというのをやって脚を不自由にしてしまった。目も白内障をやって手術をしていた。新蔵も良くない。おかあさん達が帰国する前だったので、毎日、関西に住むおかあさんのお兄さん二人が交代で枚方に来ては面倒を見ていたのである。この伯父さんたちもおかあさんたちが一緒におばあちゃんの所で一年生活してくれるということを大変喜んだ。

誰もが喜び安堵する状態で段取りは決まった。多摩から必要最低限の引っ越し荷物を送りだし、おとうさんとおかあさん、それに籠に入れられたわたしの三人は、沢山の小荷物を積んだ自家用車で多摩を後にした。おかあさんにとっては、今度は、わたしのことで後ろ髪を引かれることもなかっただろう。

五百キロの道のりは遠かった。飛行機に乗っている時間ほどかかる。高速道路の途中で何度か、休憩したが、わたしはずっと籠の中のまま。ニューヨークに行った時と、自由の無い困難さは同じであった。犬族は外に出して貰っていたが、猫は信用して貰えない。いつ、どこかへ身を隠してしまうかわからないという懸念があるのだろう。失踪経験のある前科者であるので信用が無い。残念である。


2012年6月26日火曜日

家族 (今年度2番目、全部で4番目の孫の登場)

長女のCaesarean sectionの日程が定まって、その2日前から蘇我へ。心配していたPlacenta previaの可能性は殆ど無くなったことから、本来予定されていた日まで何とか持ってくれたらとの願いがかなえられて50%安堵していた。そしてその瞬間が現実に。26日正午過ぎに女児が誕生。良かった良かった!お産は苦しみの代償があるから苦しみ甲斐があるというもの。

上の子の面倒を見ながら退院するまで蘇我に滞在することになっている。一方日光の自宅の方では夫が自分の仕事と自分の食事やら身の回りのことで大変の様子。致し方ない。孫の為に我慢して貰おう。それが家族の助け合いというもの。というより、まだ子供達に助けを求められて、それにさっそうと応えられることに感謝しなくては。

ここで二児のパパとなった娘婿が、娘の誕生に寄せた命名の感動の解説詩を紹介したい。

命名 明里(あかり)  幸福実田園の(こうふくみのるでんえんの)
               恵みの大地に輝く娘(めぐみのだいちにかがやくむすめ)
               優しい笑顔の灯を燈し(やさしいえがおのあかりをともし)
               皆が集まるふる里をめざしてください(みんながあつまるふるさとをめざし
                                       てください)             
                
               朝子の名にある日と月と(ともこのなにあるひとつきと)・・Re:母親の名前
               道のり刻む里じを結び(みちのりきざむさとじをむすび)・・Re:父親の名前
               生命花咲く明るい里に(いのちはなさくあかるいさとに)

2012年6月23日土曜日

日光清風塾 秋の大プロジェクト作戦開始

平成24年度日光清風塾総会開催。天気は良好ながら、行事が重なりやすく、出席率はもう一つ。しかし、本当に関心のある人達は場所にかかわらず出かけて見える。
総会そのものは資料に基づき24年度の事業計画案も予算案も無事に通過。おかげで、後半の講話会が予定より30分早く始まったおかげで丁度予定の終了時刻に全て終えることが出来た。
インターミッションでは新理事となったMさんのキーボード演奏で一息つく。そして今回第14回目となった塾長による講話会に入る。題目は「観光振興と経済」
4年前に設立された観光庁の白書から観光に関するデーターをパワーポイントで紹介しながら、観光産業における日光の立ち位置を把握。2年前(昨年の大震災の前の年)に比較しても外国人の日本訪問数は7.8%減少している上に、日光市は昨年の大震災により1/4に低下して産業全般の沈滞の原因へとつながっている。平成21年のデーターによると日本の観光分野での外国人受け入れランキングは33位であり、アジアでは8位とのこと。国内で見ると国際観光の分野では栃木県は低く、収入高からみて23位。宮城県より低い。総論から日光市の立ち位置の低さを認識した上で、日光清風塾が今年9月下旬に企画している大プロジェクトの説明へと移行。

昨年の東北大震災の後、世界の150もの国々からの支援活動が続いている。日光清風塾も講話会をチャリティー講話会として義援金を募り、何度か被災地に持参し、ボランティア活動をしてきている。ところが足元の日光が実は原発事故後の風評被害に喘いでいるという実態を認識。栃木県は東北被災地外であるため、海外からの支援の対象になっていない。そこで、大使館の誘客作戦を練って産業の活性化のために何か出来ないだろうかということから、塾長が2月頃から数か所の大使館を訪問し、支援の交渉を始めていた。これも行政にまかせるやりかたではなく、市民レベルで全市からボランティアをつのって盛り上げることに意味があり、市全体が自分たちの町の活性化の為に動くやりかたを目標とする。若い人達の動員が必須である。プロジェクトの正否を決めるのは誘客作戦にかかっている。手作りのプロジェクトとして、プロがやるようなやりかたでやる必要は無い。出来ることを手掛けていくことである。時間は無いが今年やらないと意味がない。しかも、今年限りの平凡なイベントに終わるのではなく、来年も継続していける素地を作っていくことである。

今年は数か国が協力してくれそう。そこで、プロジェクトを「大使館ウイークin Nikko」と命名。さらに「各国大使館の応援歌、日光市に届く!頑張れ日光!」というような副題をつけるのもPR作戦としていいのではないだろうか。協力してくれる大使館を把握した上で、前向きに進んでいる状況の説明がなされた。今までやったことのない市民からの大プロジェクトを楽しく盛り上げて行きたいものである。

三毛子 (26)

  お姉さんやお兄さんのことは今のところ一段落状態。あとはわたしのことが心配になるところだが、わたしとしては、おとうさんとおかあさんと一緒に居たいものの、知らない所に行くのも気が進まない。わたしだって親離れはとっくに経験済みだが、やっぱり側には誰かに居て欲しい。でも新しい所に行って一からリサーチをし、安全な居場所を開拓するのも億劫である。今度の所はニューヨークより遠いようだし、途中の長旅にはとても我慢出来そうにない。などと言葉には出来ないもののわたしなりに悩んでいた。

おかあさんはいろいろ情報を集めてわたしを連れて行けるかどうか調べていたが、検疫所の問題や、公邸での生活を考えてわたしは連れて行かない決断を下した。ブルネイの時の経験が後押ししたのだろう。わたしは複雑な気持ちであった。又一人で毎日ドアの外の足音に耳をそばだてることになると思うと気が狂いそうになる。でも遠い北の国に行ったら、もっと緊張しなければならないかも知れないと思うとこれも平穏な状況ではないだろう。おかあさんは「ミーちゃん、どうする?」とわたしに声をかけてくれるのだが、「ニャーオ!わたしにもわからないよう!」と言うしかない。もう、おかあさんが決めたからには死ぬようなことはないはずだ。なるようになると自分に言い聞かせて我慢することにした。相当に鍛えられる運命を背負うことになるが、おかあさんたちも苦しい思いがしているに違いない。猫らしく、まとわりつかない特有の歩き方で我が道を歩き、おかあさんと我慢くらべをしようと決心した。

留守中はブルネイ滞在の後半でやったように、お姉さんやお兄さんたちが順番を決めて週末にはわたしに会いに来てくれた。さびしい長い週日の後は短い一瞬の嬉しい時が来るというサイクルでわたしの生活のリズムはリセットされていった。生来、丈夫で病気を全然しなかったことはありがたかった。一人で熱でも出して寝込むようなことがあったら今の私は無かったかも知れない。

おとうさんとおかあさんが赴任して行ったノルウェーは確かに遠い国であった。でも王様や首相、大臣の日本公式訪問が続き、更に、アイスランドにも兼任していたので、アイスランドからも首相や大臣の公式訪問があり、その都度、おとうさんとおかあさんは一時帰国をしたので、ほんの数日ではあったが多摩に寄ることがあったので、その時の嬉しさは格別であった。事前の予告なしで、いきなりドアが開いて二人が入って来たときは、誰か見知らぬ人が侵入してきたと思って、しばらく陰に潜んで様子をうかがった。

三毛子 (27)

「ミーちゃん!」とあのおかあさんの澄んだ弾むような声がしたがすぐには姿を現さなかった。猫は人間が思う以上に要人深い。二、三十分してから存在感を持って登場する。しばらくぶりでわたしもいささか緊張気味に
「ニャーオ! ウーゴロゴロ、ニャーオ!」とやっと甘えてすり寄る。そして劇的な再会を演じる。わたしはおかあさんの膝まで前足を延ばして「ニャーオ!」とねだる。するとおかあさんは
「よ~く、お留守番してたわね~!」とわたしを抱き上げてハグしてくれる。
 わたしは前足をおかあさんの首にまわしておかあさんのうなじをぺロエロなめまわす。この儀式は、どうやらこのころから始まったように思う。今でもこの儀式はことあるごとに行われる。勿論これはわたしがイニシャチブを取る。いやな時はやらないのが猫の主義である。主導権をにぎられるのをわたしは好まない。おとうさんはこれでいつも失敗し、損をしている。
ともかく、五、六か月会っていなくても、おとうさんやおかあさんはすぐわかるし、絶対忘れることは無かった。それだけにわたしのことを特別な猫として、又、頭の良い猫として可愛がってくれていた。わたしもそれに応えるべくしっかり留守をし、再会した時は、最初は慎重に隠れて様子伺いをするものの、存分に甘え、留守中の寂しさを挽回した。

留守を守って二年八か月、元気で耐えていればなるようになるものである。おとうさんとおかあさんの本帰国の時が来た。






2012年6月22日金曜日

三毛子 (25)


第五章 再び多摩での一人暮らし(2001~2003)

二年前にやっとおとうさんとおかあさんが、ブルネイという暑い国での仕事を終えて多摩に戻り、日本での生活が始まってわたしにとっては平穏な日々が続いていた。途中で、一寸した不注意から行方不明となり、失踪事件を起こしてしまったことはあったが、それも平和ボケに喝を入れたような出来事であった。二人のお姉さんもお兄さんもみんな職場や学校に近い所に住んでいて、普段はおとうさんとおかあさんとわたしの三人だけで静かであった。昼間は一人で留守をすることが多かったが、夜は明るい電気の下でおかあさんの側に居て時々頭や背中を撫でてもらうのが楽しみであった。

それなのに、又、河合家に動きが出た。2000年も終わろうとする頃、丁度発展途上国からの研修員の為に、コーディネーターとしてあるコースに就いて仕事をしていたおかあさんの所におとうさんから電話が入った。

「来年早々にノルウェーに行くことになりそうだ」と。

おかあさんは今度はとてつもなく寒くて遠い国だと咄嗟に思ったらしい。

 
「今度は、毛穴をしっかり閉じてかからなくては!」

 持っていく物もブルネイの時とはまるで違ってくる。それより三月にノルウェーの国王女王両陛下の日本への公式訪問が予定されているとのこと。これは今まで経験したことのない一大行事にかかわることになる。当然、おとうさんは覚悟して心を引き締め、情報を集めて準備にかかることになるし、おかあさんも指示に従って又動き回ることが予想された。特命全権大使という立場はブルネイで一度経験したとは言え、今度は又、両国の関係から異なった準備や勉強が必要になる。時間はあるだろうか。わたしは、二人の様子から緊張感が増し、わたし自身は一体どうなるのだろうと戦々恐々としていた。

お正月が過ぎ、おかあさんも仕事を一段落していよいよ気忙しく北への道、ノルウェーに向けて動き始めた。今度は日本からなので、前回のようにお兄さんの学校がからんだ複雑な計画に悩まされることは無かったようだが、元首の公式訪問という次元の異なる未経験の任務が控えている。外務省からの情報や指示に従って準備はスタートしたが、これまた閣議の都合で、はっきりした認証式の日取りが決まらず、おかあさんとしては、留守中の手続き、手配、引っ越しの段取りが気にかかる。毎日がスタンバイ状態で、実際に着任の日が決まったのは二週間前ぐらいだったと思う。その間、わたしのこともどうするか頭を悩ませていたようだが、泣く泣くわたしは又一人、多摩の家に残される運命におかれてしまった。

2012年6月20日水曜日

日光清風塾

昨晩台風4号の到来を懸念して早めに蘇我より帰宅。今回は2泊のみの留守だったので、留守番をした夫が台所で空腹に彷徨った形跡は余りない。ホッとするものの、生ごみ回収の日であることを伝えそびれた成果が目の前に。
一夜明けて、去る14日に一泊しながらの検査入院(CPAP)の結果を診断して貰うべく病院へ。先生に「優秀ですね!」と褒められて思わず笑みをこぼす。つまり、1年経過してCPAPの器具の具合が大変良いということ。無呼吸症状が殆ど見られないということ。そのままこの器具で毎晩宇宙遊泳を続けて行くようにとの診断結果であった。治療ではなく対処療法というのだろうか。一生宇宙を彷徨うことになりそうだ。

ところで今日、かねてから日光清風塾塾長が構想を練っていた秋の大プロジェクトに向けての準備会議を少人数で開催。今までの経過報告を入れて3時間半に及ぶ意見交換が行われた。建設的意見が出ると嬉しくなる。漕ぎ出した船はもう戻せない。前向きの議論を聴いて、いよいよ出動開始を実感。理想の方向が見えてきたがどう具体的に動くかがこれからの課題。

2012年6月12日火曜日

家族

6月12日 2日前から長女の所に出張滞在。彼女の第二子出産をまじかにして、孫の星ちゃんのおともりが大義名分。3月に5歳になった彼は同期では一番幼い方ながら年長さんの一人として随分成長している。半年前は鉄人28号だの、仮面ライダーなどのキャラクターになりきって動き回っていたが、関心が少しづつ変化してきているのが見えて面白い。幼稚園への送り迎えは15分~20分かけて歩いて出来るのがとても好ましい。幼稚園バス利用の話もあったようだが、本人が歩く方を楽しんでいるので、バスのお世話にならないことにしたとのこと。私にとってもウオーキングが出来るのでありがたい。

朝8時50分、9時幼稚園到着めがけて
千葉市の松ヶ丘の一角に住まいがあるおかげで朝のフレッシュな緑に囲まれた池の側を、梅雨時の濡れた空気を存分に満喫しながらそぞろ歩き出来るのは嬉しい。そして星ちゃんとの会話が楽しい。行きはママも一緒で話も賑わう。5歳の男子が俳句づくりをやろうと言い出したのには驚いた。

「はっぱさん、風に運ばれ いい気持」

なんて即興で彼の口から出たのには感嘆した。本当に感嘆すると、本人も励まされて次々とリズムに乗った快い響きの句が出てくる。子供のイメージは新鮮で、細工がなくて本当に素直だとつくづく思う。

2012年6月6日水曜日

The season of fresh green has started !

A big, noble and attractive English rose  
June the 6th.
Small and thin rose but it
fascinates us with its super good smell

We had rather unstable climate in the last few weeks.
A group of plantain lily
Now in spite of cloudy weather these days, all the flowers and herbs, even some fruits(cherry) in our garden are in their golden time. It's amazing they know when to come out. They make the green around in our  garden more  brilliant  and beautiful.    
I feel my fresh spirit gushing  out  when I enjoy them.

2012年6月3日日曜日

三毛子 (24)

三毛子(24)

朝がきてあたりは明るくなり、階下では人の足音など、生活の音がスタートし始めていた。夕べは、いつもと違う場所にいたために、余り寝ていない。いつもの騒音の中でかえって神経がゆるめられ、眠気をもようして来たのでしばらくそのまま寝ることにした

 突然人の足音がすぐ近くにあった。

「あれ!ミーちゃん、ここに居たの!」 

「・・・・・・」

「ずうっと探していたのよ!何でこんなところに来ちゃったの?」

「・・・・・・」何も言えないわたしだった。

「ほら、こちらにおいで!」とその人が叫ぶ。その人は鉄柵の中に入れないでいる。わたしはその人が誰か知らない人に見えて、警戒して近寄らないでいた。するとその人は一度その場を去り、四、五分して戻って来た。今度はコウモリ傘を持っている。何をするかと思ったら鉄柵のすき間にその傘の柄をわたしに向けてきた。傘の柄が私の首をつかまえ、わたしをぐいぐい引き寄せる。敏捷なはずのわたしなのに、何故か、吸い込まれるように鉄柵の方に引き寄せられていった。その人は鉄柵のすき間とすき間にそれぞれ手を通し、わたしを捕まえようとする。違ったすき間から二本の手が来るので、わたしを捕まえてもわたしは鉄柵から抜け出られない。その人はあせっていたが、すぐそのバカげたやり方に気が付いて、二本の手をむりやり狭いすき間に一緒に伸ばし、何とかわたしをつかみ直してわたしを引きずり出した。わたしは、身の危険を感じて、必死で抵抗し、その人の手や腕をひっかき、赤い液体が滲み出るくらいもがいてしまった。

 その人は無我夢中でわたしを捉え、傘も一緒に身動きできないくらいしっかり抱いて半階段を降りた。そして八○四号室へ。ドアの中に入って、初めて、わたしはそこがなじみの所であることに気が付いた。自分でもわからない。その人はおかあさんであるのに何故、抵抗したのか。置き去りにされたことにすねたわけでもなく、あの鉄柵のところに何故ずっと居すわっていたのか、探しに来てくれた人がおかあさんなのに何故喜んで懐に飛び込まなかったのか。おかあさんにとっても、わたしがあそこまで不可解な反応を示したのか理解できず、悲しい思いをしたに違いない。「ミーちゃんは飼い主を何だと思っているの?」と、バカなのか、冷たいのか、異常なのか、やはり、畜生は畜生と思いやりとか、やさしさとかいった愛情とは無縁な生き物としか思えなくなったかも知れない。わたしにもわからない。既に、八歳ぐらいにはなっていたからちゃんとした成人である。

このまる二日の失踪事件以来、わたしは外廊下に出ることは無かった。中のベランダで外の空気を吸うので充分ということになってしまった。おかあさんには悪いことをしてしまったと少しずつ後で反省し始めていた。あの時、おかあさんはわたしの鋭い爪でひっかかれた傷の処置に病院まで行っていた。それでもおかあさんはわたしの世話をし、あいかわらず可愛がってくれた。