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2012年3月12日月曜日

三毛子 ④

 わたしは、次女の康子おねえさんへのプレゼントであったが、結局、わたしの身の回りの世話をしてくれたのはおかあさんである。ダンボール生活から卒業して、家の中をパトロールするようになると、みんな、おもちゃとして、アクセサリー的にわたしをかわいがってくれた。メゾネットになった三階づくりの家だったので、階段が二か所にあり、最初は上ったり下りたりするのに骨が折れたが、半年もすると、簡単に家の中を走り回るようになっていった。小鳥のようにおねえさんの肩の上に乗ったり、ピアノの上からみんなを見下ろして得意に遊ぶようになり、人間だけを相手にしながら天真爛漫に河合家の一員となっていった。

 家族はそれぞれに忙しく、おとうさんは国際関係の仕事をしていて、よく海外出張に出ていたし、おかあさんも海外からの研修員相手の仕事を時々やっていたし、子供たちはみんな学校が忙しかった。仕事のないわたしだけがいつも留守番をするはめになったが、一日中一人でも平気であった。これも猫の優れたところである。そんな時はゆっくり静かに睡眠をとっていれば問題なかった。

 最初は水とミルクが与えられただけだと記憶しているが、そのうち小さく砕いた魚の肉とか鰹節をもらうようになり、どんどん成長していった。おかあさんは、何気なく食べるものを出してくれる。でも、いつも「ほら、ミーちゃん。おいしいわよ!」と言ってわたし専用のお皿に何かのっけてくれる。匂いをしっかり嗅いで、危ないものではないかどうか確かめて、慎重に食べるのがわたしの生まれつきの習性。量もほんの少しで、がつがつ食らいつかないところも生まれつき。沢山食べてなくても運動は抜群にやり、家の中をダッシュして駆け回っていた。食器棚の上にもへっちゃらでジャンプアップ出来た。家族が食事をしている時など、上から家族を見下ろす様が羨望の的になったりした。

 

2012年3月11日日曜日

東日本大震災 あれから一年

あれから一年。速いと感じたり、遅いと感じたり、メディアの真剣な報道を見つめながら被災地に思いを寄せている。本当に日本人は粘りがあり、底力がある。被災地で困難に直面しながら立ち上がろうとしている人達を誇りに思いながら、思いだけで手が差し伸べられていない自分をはがゆく思うばかりである。被災した幼い学童でさえ、出来ることをやって周りに元気を与えている。義援金はかなり集まり、物資も届いている今、今大事なことは手をつないで一人では無いということ、周りの人達も思いを寄せていてくれていること、みんな繋がっているという思いをしっかり持ってもらえるように現場に行って、なにげなく声をかけて気持ちを共有することかも知れない。
一年前の午後2時46分。忘れられない。金曜日のクラスが突然揺れ始め、並の揺れではないことを感じ、クラスとセンターの皆さん全員で動揺したことを。それがあの未曾有の大参事になっていったことを。
 世界が日本を見続けている。昨年の6月現在で126か国の政府からの支援を受けたという報告がある。これは史上最大の国際支援とのこと。1日100円以下で生活しているアフリカの国々からも一人10円、20円というお金を出してくれたそうだ。それほど日本は世界から最も愛されている国の一つということである。この愛のある支援に報いるためにも、世界の平和と震災復興の国づくりに政府も尽力して欲しいとこの日にあって強く願っている。

2012年3月8日木曜日

三毛子③

この一週間は夫が西安に行っていて、あちらの大学で講義をしながら学生達と交流に励んでいる。その間、石巻の被災地で頑張っているあるグループを応援に行くことも考えたが、今回は断念して、自分を総括しながら書き物に専念することにした。その一つが愛猫の自分史。今日はその③に入っていく。

三毛子の続き その③

 このようにして、わたしは東京都多摩市諏訪三丁目に住む中年夫婦の家に連れて行かれ、その家の養女となった。里親の名前は河合。河合家にはこの両親の他に、三人の子供がいた。長女は京都の大学に、次女と長男はそれぞれこの多摩の自宅から高校と中学に通っている。そもそもわたしは、この次女の誕生日プレゼントとしてこの家に運ばれてきたことがわかった。次女の誕生日は五月十五日。沖縄返還記念日なので絶対に忘れない。そう言えば、長男は一月十五日が誕生日で一昔前までは成人の日として祝日だったのでこれも忘れない。わたしの誕生日は四月二十二日。四月のニャンニャンの日である。これも特別の日で覚えやすい。従ってわたしは生後三週間ほどで河合家の養女になったことになる。子供たちはみんなわたしを見て、「かわいい!」を連発していた。早速、わたしの名前さがしを始め、いろいろ議論してどうどうめぐりをした結果、もとにもどって簡単な「三毛子」と命名された。雌の三毛猫そのまんまの名前がつけられた。みんな、わたしのことを「ミーちゃん」と呼ぶようになった。そしてわたしは河合家の四番目の子として存在感を持つようになっていった。

 最初は小さな段ボール箱に入れられた。おかあさんが箱の隅に水と砂場をちゃんと用意してくれた。わたしが頼んだわけでもないのに、そして、そにそのようにしつけられたわけでもないのに、わたしは砂場で用を足す運命が与えられた。この時から、一度もそそうをしたことがない。生まれてからずっと、間もなく二十歳になろうとしている今でも、これは自慢できる。人間にはまねできない猫の優れた習性であり、家族もそろって褒めてくれる。

2012年3月5日月曜日

日光清風塾 第12回塾長講話会

3月4日(日)
いろいろ行事が多い中、予定通り講話会を実施。今回のテーマは「世界の教育」。これは毎回実施するアンケートで一番要望の多いテーマであった。
前回同様、まず参加者から質問点、疑問点を出してもらい、それらに触れつつ話が進められた。
①先生の教育②秋入学について③教育の経済負担

 総論として二点があげられた。
○ 先進国は今や発展途上国の教育改革に猛スピードで追いかけられ 
  ている状況であること。
○ 教育は国際競争の時代に入って来ているということ。

アフリカのウガンダの例。IT技術の普及とITを駆使できる状況にあって、国に活力を与え、活性化してきている。旅の途中で出会ったユネスコの教育部長の話によると、先進国の教育は劣化してきている。北欧だけは別だと。インドの例。インド国内の工科大学のレベル上昇。入れない学生がアメリカのMITに行くという驚くべき状況になっている。中国の英語教育が凄い勢いで伸びて来ている。これは就職とも繋がっている。韓国も同じである。

先進国の教育は北欧型とアメリカ型に分類化出来る。
北欧型→時間をかけて基礎力をしっかりつけさせる。出来の悪い子をそのまま基礎教育を修了さ
      せるのではなく、時間をかけてレベルに達するまで指導。従って切り捨てがない。
      先生(指導者)の育成も時間をかけてやる。日本のように、大学に入って本腰で実際勉
      強する時期に就職活動に走るようなことはない。進路を決めて真剣に勉強する。しっか
      り勉強してきた先生は信頼される。先生を信頼した教育が徹底される。
アメリカ型→低学年ではやはり時間をかけてじっくり教育する。みんなが何となく大学進学するので
        はない。高等教育の段階で直接大学に進む者、社会人になって改めて大学に入って
        来る者、直接大学に入っても、途中で社会人になってまた戻ってくる者というように多
        様である。 ただ、優秀な者は大学あたりから選抜されていき、格差が出てくる。少数
        のエリート教育にお金をかける。優秀な研究が出来る環境が与えられる。研究成果
        があると企業からの献金も集まってくる。そこから、また、新しい研究が出来る。とい
        う循環になる。アメリカは研究分野でエリート層が厚く、その分、格差社会を産む結果
        になっている。
日本はどうか?アメリカ寄り。しかし、政府の教育予算額が低いため、優れた研究が出来る環境と   は言い難い。日本は、北欧型とアメリカ型双方の優れた点を導入して、もっと政府予算を増やすべきだろう。北欧の教育支出への財政支援は大きい。日本は少ない。先生の育成も時間をかけてやるべき。日本の先生は雑用が多いのか、忙しすぎて能力が十分開発されていない。

今や、教育は一国内の問題ではなく、国際競争の時代に入っている。日本はかつて、秋入学の導入を試みたことがあるが日本という国の成長が目標であったことから、国内の事情(会計年度、就職時期等々)に合わせる必要があるということで結実しなかった。しかし、そうはいっておれない状況になってきている。欧米の制度に足並みを合わせる必要が出てきている。日本の大学のレベルも下降して来ている。教授陣の劣化も否めない。国際社会の中で教育を考えていく時代となった。

教育は人材育成であり、経済を活性化するための力となるもの。スエーデンの例。人が元気だから産業が元気。人材育成は産業の源である。ここでも教育費として国家予算が大きく投入されている。古い産業を守るためではなく、これからの産業を育成する人材育成に投資するということである。

教育の原点は読書。国語力(読解力)が最優先。これは家庭教育の重要性を説くものである。北欧の子供達の国語力は非常に高く、かつて優秀だった日本は9位にランクを下げてきている。教育を学校だけにまかせるのではなく、根本的なところでの家庭の躾と指導が重要である。

2012年2月29日水曜日

三毛子 ② 雪景色の日に綴る

予報通り朝目覚めたら雪がコンコンと降っていた。この降り方だと、一時的ではなさそう。我が家からの借景は見事で見とれるほどだが、現実に戻ると、今日予定していたことが出来ないのではないかと危ぶまれる。案の定、義姉達とお見舞いに病院に行くのを延期することになってしまった。夫は都心からの友人達と山へ滑りに出かけた。静かな一日を今日は自分の書き物で過ごすことにしよう。
愛猫が綴った自分史をブログに載せることにして一週間が経つ。今回はその第2回目。第一章に入る。

三毛子の書いた自分史   目次
                  
はじめに   

近影 ミカンの入っていたネットをスカーフに。

第1章 多摩市で運命のスタート(1992~1993) 
第2章 ニューヨークへ(1993~1996)
第3章 帰国して多摩での一人暮らし(1996~1999)
第4章 飼い主との生活再び(1999~2001)
第5章 大阪暮らし(2001~2003)
第6章 第6章 多摩の家での二年(2003~2005)
第7章 第7章 日光に移住(2005~    )

             
あとがき

第一章 多摩市で運命のスタート(1992~1993)

 当時の多摩丘陵地は二十年前に都市開発が盛大に行われて公団住宅が立ち並び、若い人達がベッドタウンと称して移り住み、活気がみなぎっていた。当然、学童の数も多く、日本の未来は健全と思われていた。バブル経済がピークに達して、そろそろ限界が見え始めた頃、わたしは四人兄妹といっても四つ子の一人として、多摩市諏訪の団地に住むあるお宅で生を受けた。1992年四月二十二日がわたしの誕生日である。そのお宅は二人の子供とその両親の四人家族がいたが、狭い団地住まいなのに、なぜか猫を可愛がり、わたしの家族、つまり、わたしの両親と四つ子の兄妹も一緒に面倒を見てくれていた。大家族となっていた。

 生まれて一か月が過ぎたころ、近隣の団地に住む中年の夫婦がこの家にやってきた。駅ビルのスーパーで広告を見てやって来たという。
「猫を可愛がって下さる方、子猫を差し上げます。」という小さな広告を出していたのだ。わたしたち生まれたての兄妹は、はしゃぐこともおびえることも知らず、箱の中でキーキー泣きながらうろうろしていた。わたしの両親と他の兄妹はみんな真っ白で洋風のにおいがして足も長かったが、なぜか、わたしだけが三毛で和風であり、足も短かった。突然変異というやつかも知れない。

 「白はそのうち疲れる」とその訪問客の男性が言った。不可解なことを言うと思ったが、多分、同じ色より色に変化があった方が自然で、緊張しなくていいということなのだろう。
 「この三毛ちゃんは目がグリーンじゃないの?一寸洋風な感じもするし、美人顔よね。」と今度は連れの女性が言った。
 迷うことなくすんなりとわたしが取り上げられた。なにがどうなtっているのかもわあらないまま、わたしはそのまま、その男性のジャケットの内側に抱かれて生家を去ることになった。
                      (次回につづく)


2012年2月22日水曜日

三毛子


はじめまして。三毛子と申します。


 私の愛猫三毛子嬢を紹介します。というより、彼女に自分史を書かせてみるのも面白いかもしれないとの思いつきで、本来のブログの合い間合い間に一寸挿入して行こうと思います。どこまで行けるか心もとない試みではあります。


はじめに

 わたしはあと二か月で二十歳になる三毛猫である。四月二十二日が誕生日。人間なら百歳ぐらいの立派な後期高齢者である。でも記憶も体力も若いも者には負けないくらい元気で、病気知らずの三毛猫である。器量も衰えていない。飼い主であるお母さんといい勝負になっている。それでも生き物の命ははかない。現に、一緒に二年間を過ごした水槽の中の金魚が二匹とも続いて死んでしまった。地震が頻発している中、先行きどうなるかわからないし、みんな五十パーセントの確率で生きていることを思うと、残された時間はあてにならない。猫だってここまで生きてきた証のようなものを残したい。残された時間に向き合って、今まで仲間がてがけなかったような自分史に挑戦することにした。人間世界に入って、いかに多くの助けと恵みを享受したことか。自分の人生を振り返ってみると感謝することばかりである。一方で、わたしを育て、大きく成長させてくれた飼い主一家に、多少の心配はかけたものの楽しみと癒しを与えてきたことを誇りとしたい。わたしの名前は三毛子。ユニークで素晴らしい猫の足跡が描けますように。2012年2月22日 ニャンニャンの日なんて特別な日があるのも嬉しい。

2012年2月5日日曜日

日光清風塾 第11回塾長講話会

歴史的大寒波が続いた中、台風の目のような日となった今日、清風塾第11回目の塾長講話会が予定通り開催された。原則として毎月第一日曜日におこなわれているが、一月は正月の流れで休講としたため、今回が今年最初の講話会となった。その意味をくみ取って、講話は新年の挨拶から始まった。

支援センターでの講話会

さて、今回は今議論されている「社会保障と税の一体化」に焦点を定め、講師がまず話をするのではなく、参加者から疑問点、議題を提出してもらい、それらをわかりやすくまとめて解説、議論するという形式がとられた。後で回収したアンケート用紙には、この形式に賛否両論があったが、個人的には、こういう形式をとって議論するのも良いと思った。ただ聴くだけより、参加型の講話会として貴重な試みだったと思う。丁度、昨日、総理が慶応大学でこの問題をとりあげて学生に解説したことがマスコミで報道されていたが、日光の支援センターが日光版ミニ慶応大学化した雰囲気で、何だか、学生時代に戻って問題に取り組んだ印象が得られた。


提出された議題は写真のように、かなり理解するのに複雑なものだったが、要点を得て準備された資料をプロジェクターで画像にしての解説は、わかりやすかったのではないだろうか。
①国債債務残高の問題
②消費税増税の問題
③歳出削減
④将来の日本の人口の展望
⑤女性、非正規労働者の社会保障、年金の安定化
⑥ノルウェーの場合、高い消費税(強い反対を押し切って政府与  野党が国家を救済するためと訴えて20%を決定したいきさつと、今や更に25%になっている)にもかかわらず、国民は納得しているという現状

こういった議論をする上でポイントとなる数字を把握しておくことが重要であることを再確認。日本がかかえる借金が1000兆円、GDPがその半分の500兆円、国家予算が90兆円というのがまずポイント。国家予算の中に占める社会保障費は20%で、先進国の中ではまだ17位ということ。政府は最低限の保障を守るために、増税は必須ということを言っている。消費税増税ではなく所得税の累進課税を改正すべきという意見もあるが、今の高所得者の上限40%をたとえ倍の80%にあげても、計算上3兆円弱にしかならない。消費税を1%上げた場合、2.5兆円税増収となる。(5%上げると12.5兆円増収)。それでも将来的には更なる増税が必要となるということ。2020年が税制改正した場合、検証される重要な時になるという。人口は右下がりになり、高齢者が増えて子供の数は少ないまま。経済活動は沈下。中国やインドは国内の需要が低いままに、安い製品をどんどん海外に輸出供給する。日本は中国のマーケットと化してきている。日本に投資を呼ぶどころか、日本の投資は中国に向かって外に出ていく状況である。

がんにおかされている日本は今、緊急処置は必要だが、国家の展望を描いて、若い人の人材育成が一番の課題であり、それも真の民主主義を育む中で教育制度の見直しを徹底すべきだろうというのが結論であった。今のイタリアのようになってはならない。