三毛子 ⑨
わたしたちのニューヨークでの住まいは国連本部に近いところに決まった。おとうさんとおかあさんが毎日のように出かけて探し回ってやっと見つけたところだ。コリンシアンという高層ビルの十七階のアパートで3LDK。とにかくお父さんの仕事の関係で、沢山お客さんがむかえられるよう広いリビングがあることが一番の条件だった。このコリンシアンというビルは半分弧を描いた形になっていて、リビングの形が半円形の形になっていた。モダンな印象を与えていたが、その分、家具のレイアウトは難しそうだった。
家具のないアパートだったので、おとうさんとおかあさんはその後もベッドや机、ソファやディナーテーブル、食器棚など、必要な家具を探し回って結局落ち着くのに二か月はかかったように思う。お客様が出来るようセットアップするのは本当に大変そうだった。わたしは今回、初めて一緒に海外に出たが、今までは勿論、これからも何度か二、三年ごとにこのような引っ越しを繰り返すことを思うと、同情してしまう。それでも、おとうさんとおかあさんは、そんな生活を当たり前のように思っているのか、弱音をはかず、いつも動き回っている。
わたしは、せめて足手惑いにならないよう、側で静かに成り行きを眺めていた。わたしの関心事は、わたしの寝床とトイレがどこに設置されるかだった。食事と水はどこでもいい。おかあさんの気の向いた場所に置いてくれれば、わたしはすぐ探し当てることが出来たし、食べる場所は余りこだわらなかた。寝場所は人目につかない、静かな所を自分で見つけていたし、トイレはお客様の迷惑にならないよう、隠れた場所におかれたので、気兼ねすることなくマイペースで通うことが出来た。私に関しては、何も問題はなかったと思う。病気をしないよう、自分の健康については自分で管理できるよう心掛けたつもりである。その証拠に、二年数か月後に日本に帰国するまで、検疫所用に健康診断と注射を打ってもらう以外、具合が悪くて病院へ行ったことは一度もない。
ニューヨークでの私の生活は優雅であった。リビングの窓の桟に座ってマンハッタンの三十六と三十七ストリート間のセカンドアベニューを見下ろして、人の行き来を眺めるのが日課であった。昼間はお父さんは勿論仕事で出かけていないし、お母さんもじっとしていない。お兄さんは週末しかいないし、広いリビングはわたしの自由になっていた。窓辺で下界を眺めるか、部屋の隅に置かれたプラントの影で寝そべるか、ソファーに沈んでなりゆきに身をまかせるか、あるいはいつものベッドの下で静かに夢の世界にひたるか、自由自在とはこのこと。でもディナーパーティーが我が家である時は、自分で身をひいて寝室でおとなしく待機する習慣も板についた。
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