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2024年1月21日日曜日

源氏物語に嵌る

2024年1月21日(日)  長女朝子から、昔越中島時代(1978~1983)の臨海小学校で彼女の仲良しだった美子さんが、彼女の母親に端を発した源氏物語研究を独学で続けているという話は聞いていた。それも社会人になってからスタートし、かれこれ30年になるという。彼女の初版①「源氏物語原文分解分類法 心の宇宙の物語 千年の時を超えて」(2015年出版)を数年前に読んだ時、あの美子ちゃんが、それこそ宇宙に飛び込んだような凄いライフワークを見つけたものと感心した。訳者紹介の一文に、紫式部が、「思考と感性」の力で言葉の限りを尽くし,この世の全てを表現することに挑んだ「源氏物語」。その「情熱と孤独」に感銘を受け、原文の読解をライフワークにしているとある。  その後、執筆活動は続き、②「源氏物語54帖 紫式部の眼」を2018年4月に出版。そして3年後の2021年12月③「源氏物語54帖 現代語訳 紫式部の物語る声(一)」を出版。続いて2023年3月④「源氏物語54帖 現代語訳 紫式部の物語る声(二)」更に2023年12月⑤「源氏物語54帖 現代語訳 紫式部の物語る声(三)」を出版。恐るべき忍耐とその意気込みに圧倒された。この現代語訳シリーズは全12冊だと言っているのでこれからの道のりは想像以上であろう。応援しないではいられない。昨年暮れに帰省した朝子が美子さんから彼女の本が送られてきたのでお母さんにも読んで欲しいと言って置いて行った。 手元に②③④⑤が今ある。②をまず完読。③に入り、54帖の5帖(桐壺・帚木・空蝉・夕顔・若菜)分の現代語訳を美子さんのエネルギーを感じながら、美子さんの心情(つまりは紫式部の思考と感性)に思いを馳せながら読んでいるところである。実に超大作である。  美子さんのご両親が源氏物語研究をまず先にスタートされていたというから驚く。そもそも母親の睦子さん(越中島時代に同じ宿舎に住んでいたことから、お互いに知り合いだった)がご主人が現役の時に京都に在勤された折、行政区の公民館での源氏物語講座に参加されたことから、睦子さんがまず源氏物語に関心を寄せ、国家公務員だった父親も退官後に興味を覚え、第二、第三の人生を歩む中で、専門とは余程遠い紫式部研究にご夫妻で一緒に研究を始められたという。その後、2009年より殆ど2年おきに単独または共著で出版を重ねて約10冊を世に出されている。専門家を超える作業を続けられているという。最新作、2023年11月出版の「源氏物語探訪 ゲーテとともに」をアマゾンから取り寄せ、それも読んだところである。ゲーテとの思考哲学の類似点を抽出し、解説をするという新しい視点で紫式部が驚愕的に崇められている。(美子さんはベートーベンとレオナルド・ダビンチと紫式部を並べている。) 他に類をみない親子のライフワークに接して、本当に感銘を受け、大きな刺激を受けている。  ただ、美子さんとの書簡のやりとりで、彼女がいかに孤独と闘い続けているかを知り、彼女の気持ちのあり方に心を寄せながら彼女の力作を丁寧に読み進めているところである。健康に気をつけて、自分を大事にして、大仕事に挑んで行っていただきたいと願いながら。  折しも、今年のNHK大河ドラマは「光る君へ」源氏物語の作者、紫式部の物語である。大石静脚色。今日で3回目であるが、紫式部がどのように描かれて行くか、美子さんの著作で得た知識、情報も手伝って、大きな関心を寄せながら見ている。  

2024年1月8日月曜日

2024年令和6年のスタート

新しい年がスタートして一週間が経過した今、やっとパソコンの前に座る。 1月1日 大晦日に遅くまで「生さだ」の番組を観て、気がついたら朝の3時。あわてて就寝したものの、6時には起床。元日の朝餉を整えるべく厨房で作業して9時には食事が出来るようにスタンバイ。しかし、夫もムナさんも起きてきたのが10時過ぎ。年末から来ていたムナさんも一緒に年始を迎え、神棚に拝礼してお節料理をいただき、ゆっくり初詣に出かけた。市営の駐車場はタイミング良く、出庫する車の後にすぐ入れられて、ラッキーな出だしに安堵。快晴に恵まれた元日の朝の山内は意外に混雑していない。アジア系の外国人が多いのと欧米の人達もかなり居たが、一般的に、若い人達が多く、晴の着物姿は皆目無かった。着飾った様子もなく、普段の出で立ちで、沢山並んだキオスクが賑やかだった。恒例の経路でまず、輪王寺に詣でる。輪王寺では珍しく、元日光ユネスコ協会会長の武田夫妻に遭遇。数年振りだったので、なつかしく、お互いに、年は重ねたものの、元気にお話が出来た。東照宮では破魔矢をゲットし、二荒山神社に流れて、お参りをする。久しぶりのそぞろ歩きは好天気に恵まれた中で気持ちよく感じていたところに、今度は以前所属していた日光混声合唱団のメンバーの佐藤さんに遭遇。古いお札を焼く一角でお仕事をされていた。あれから、二荒山神社のスタッフとしてお仕事をされているというお話だった。 二荒山神社の参道を下って帰路に。夫はかなり歩き疲れた様子で、一挙に帰宅。遅いランチの後、ムナさんは庭の土木作業の手伝い。今回は喪中はがきを出したことから、年賀状は出さなかったことから配達された年賀状の整理は無用。淋しいような、助かるような。昨夜は殆ど寝ていなかった関係で昼寝をすることに。しかし、大事件が。4時過ぎに、携帯のアラームが発生。地震警報である。寝ぼけ状態で、大地震の発生を知る。能登半島が震源地なのに日光のこのあたりまで揺れたので、相当大きいことを感じた。テレビの報道を観て、このめでたい元日に、故郷に帰省していた人達、観光客も巻き込まれたに違いない。楽しかった筈の元日が一瞬にして地獄に。まさに青天の霹靂の出来事が起きてしまった。被災された方々を思うと心が痛む。 2日は夫とムナさんはスケートに。私は厨房の仕事をして初歩きに。公園はいつもとかわらず、快晴の天気に恵まれて暖かいウオーキングだった。帰宅したら、彼らも帰宅していて、すぐに昼食。夫は足が痛くて、結局スケートはもう不可能と悟ったよう。哀れなるかな正男さん。ムナさんは小さい時にやった経験があることから、さすが、自転車同様、感覚を取り戻して、楽しんだ様子。ランチ後は、庭の地面下に電線コードを設置する作業に専念。暗くなる直前に完了。ホッ!! 3日は午前中は庭で切り株を使って木への登り階段をみんなで作る。木の枝に座れる場所を作って、展望台が出来上がった。夫の遊び心が招いた作業だったが、リスキーながら面白いと思った。ゴルフ場が一望出来る。写真撮影成功。そしてゴルフレンジに出かけて、初練習。ムナさんにとってはゴルフクラブ初握り。彼女は何事にも挑戦意欲があり、ゴルフにも関心をもったよう。さあ、どうなるか。 一端帰宅して昼食を取り、ムナさんは3時過ぎの電車で東京へ帰って行った。翌日から授業がある由。我々は、土沢へ新年のご挨拶に。甥の孫に初対面。生後一カ月。藍と書いてらんと読ませる名前とか。しゃれてるなー!おちびさん達にお年玉をあげて一段落。 4日は二人で初打ちat Linehill。スコアは良くなかった。 5日、新聞で渡邊弘子さんの訃報を知って驚愕。神林さんに電話で様子を伺ったところ、昨年末、急に体調を崩して、そのまま帰らぬ人に。心質性肺炎が病名。心室が繊維化して呼吸が困難になるという恐ろしい病気。急性であるのが死亡率が高い由。信じられない思いだった。10月末のソロプチミスト主催ゴルフチャリティーコンペで元気な姿を見たのが最期になった。人の命って実にたわいないとつくづく思った。 夕方、夫とご自宅を訪問して弔意のご挨拶。いろいろ詳しいお話を伺って、病院の対応に一寸ミスがあったのではないかという不信感を持ってしまった。 8日、告別式に参列。(第二月曜日にあたるこの日はコーラスがあったが欠席)