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2021年9月25日土曜日

中秋の名月(9月20日)鑑賞の次は我が家の柿の実保護作戦9月24日’21

今年の中秋の名月は満月と重なり、見たいという念願が叶って、曇り空の後ろから煌々と輝きを届けてくれた。この現象は、次回は2030年だというから尚更である。孫達も顔を出してくれた名月を祝って、前衛創作ダンスを踊った映像が届いた。その数日後の朝、ウオーキングの時、曇り空の隙間に名月の余韻が見え,土手道の遥かかなたの西南の空に見えた月はまだ丸かった。宇宙で起きている太陽と地球と月の関係を復習しながら帰宅すると、現実の問題が待っていた。

 我が家の庭の柿の木が沢山実をつけ始めている。昨年11月にアキレス腱を切断した夫に代わって、猿対策のネット張りという大仕事が待っていた。うまく行くかどうか、やってみなければわからない。以前、鳥対策でチェリーの木にネットを張ったが、あれはうまく行かなかった。見事に鳥たちのご馳走になってしまった。あの時は天井にもカバーをかけねばならず、素人ではうまく行く筈もなかった。今度は猿なので、天井はネットは無用と夫が言う。周りをネットで覆うだけ

なら、何とか出来る。ただ、本当に、それで猿は柿の実を諦めるだろうか。とりあえず、出来る範囲でやってみることに。蟹を人間に置き換えて果たしてその結果はどちらが勝つだろうか?Fight of men against monkeys will surely end up with men's victory! Let's look forward to finding the result. I hang a special bell from Switzerland so as to let us know when monkeys visit here.(笑い)

2021年9月17日金曜日

2021年9月15日(水)武内孝善学者先生宅を訪問

 日光清風塾の10月(本来は今月、9月の予定であったが、コロナ禍の為、会場が閉館され、結果的に来月に延期。超多忙の先生のスケジュールが心配されたが、その前日に、関西から帰省されるとのこと。)講話会での講師の先生をお願いしている、高野山大学名誉教授、竹内孝善先生宅を、生沼牧子さんのご案内で夫と訪問させていただいた。コロナ禍の中ではあったが、久しぶりの益子行きドライブは気分上々であった。車の流れは通常と変わらずで、ナビに従って走ったが、何度行っても益子の道には暗い。地図を一度しっかり頭に叩き込まねばといつも思う。

 牧子さんとは1時に益子駅での待ち合わせだったので、それまでに昼食をと、近辺を探し回ったが、余り食事処の無い所。。やっと一軒、探し当てた手打ちラーメン店に入ったところ、"瑞々しい実に美味しいラーメン”に出会って大満足。冷やしつけ麺は最高に美味しかった。チャンスがあったら、又、行って見たい。

 1時に牧子さんと従姉弟さんの雨宮美智子さんに無事合流。牧子さんの先導で私達は雨宮さんの車に乗せていただいて目的の場所に向かった。分かりにくい田舎道というか、山道を行くこと約15分。森林と清水に囲まれた山深い里に佇む家に到着。最初は何か、人里離れた、仙人が住むような雰囲気に思えたが、玄関の中に入ると、正面の低い床台に、一輪挿しに生けられた一輪の白い花と、お香の匂いがまず視覚、嗅覚を和ませてくれた。上品に手をついて客人を迎え入れてくれる文化がそこにはあった。

 長い机に5脚の椅子が用意されたお部屋に入り、先生とご挨拶。空海研究の博士先生はまず、美味しいお茶と和菓子をご自分で用意されて、お茶を入れて下さり、その、しぐさ、姿勢に驚いてしまった。とても、温かく、シャイな、お声も静かで、でも、おもてなしの精神が充満していた。夫が、ご挨拶からいろいろな話へと切り替えて、一般宗教から密教へと、質問を投げかけながら、話が広がっていった。密教の定義を捉えるのはなかなか難しい。如来の秘密とは何を今なすべきか、市上(一般人)個人のレベルに応じて諭すこと。悟りとは本来の自分がわかるということ。救うとか、救えないとかいう話ではない。(夫は、密教は秘密の宗教として、分かりにくい。人間は誰でも、波阿弥陀仏と唱えれば救われるという浄土宗はわかりやすい、としきりに繰り返す。)先生は、我々一人一人は仏と同じものをいただいているので、それに、早く気付いて欲しいと言っているだけのこととおっしゃる。空海は直感的にそれをとらえ、最澄は理論的に説いているとのこと。空海の出生地は未だ、明らかになってはいないが、母方の祖先が豪族物部氏であったことはわかっている由。

 難しいお話を続けながらも、合間合間に、先生は、お茶を沸かしに行ったり来たり、和菓子の次は、果物を用意したりと、常に、おもてなしの精神をお忘れにならない。奥様を亡くされた後、研究に向き合いながらの日常で身に付けられたことなのだろう。凡人には行きつけない世界観があった。沢山の著書もあるが、空海研究には貴重な蔵書を収めた書庫が隣接されている。空海研究所所長として、多くの研究仲間の手助けの下、二トンもの蔵書(日本一の蔵書量)の整理作業も続けておられる。書庫を見せていただいたがまさに圧巻である。

 しばらくして、牧子さんのお話から、この場所は、以前、大野紘平君がコンサートをした青山陶芸家の家だとわかった。牧子さんもあのiコンサートに行っておられたとは。二人ともびっくり仰天した。その当時、私達はまだお互いに存じ上げなかったのである。陶芸家の方が、手放されたこの場所が、今では竹内先生のお住まいになっているとは。帰宅してから、あれはいつだったろうとブログを検索。2017年7月29日(土)であることを確認。奇遇である。あれから、大野紘平君と里子ママが友人に連れられて、我が家に突然見えたのがあのコンサート後間もない、8月5日(土)であった。それから、コンサートがあるたびにお目にかかり、その後、夫が瑞宝中綬章を賜った時には祝賀会を開催して下さった。その時に生沼牧子さん(あの有名な雨宮宇都宮高校元校長の姪御さん)にお会いしたのでした。それからネットワークが広がり、次々と学者先生を紹介して下さることに。今回の竹内先生もそうであった。

 帰り際に家の裏山を拝見。何十種類もの椿の山、珍しい山草、花々、清流にはワサビ、牧子さんの植物知識の豊富なこと。これにも感銘した一日でした。

 ◎追記として、4年前、7月29日のコンサートの時のブログをここにコピペしておきたい。

この週末も雨天の中、三つの動(感動と行動)に恵まれました。益子、新緑の山中に佇む青山でのランチタイムクラシックコンサートに参加出来たこととその足で上京して孫No3とNo6と雨天の中決行された隅田川花火大会をベランダから一緒に観て楽しいひと時を過ごしたこと。そして帰路、夫と初めて浅草の演芸ールに入って落語、漫才を生で堪能して大笑いしたこと。
響子さんのbeautiful&attractiveなバイオリン演奏に魅了され、ピアニストの紘平さんも切れ味の良いタッチで前回に続いて素晴らしい感動を与えてくれました。86歳のお年で80の手習いと言われながら、ご持参の名器ストラディバリウスを弾いて響子さんと共演されたDr.Hinoharaの意欲とバイタリティーにも圧倒されました。
おまけに今回は驚きのハプニングあり。ランチタイムのテーブルでのお話から当時父が仕事の関係で赴任していた春川が私の生誕地であることが伝わってしまい、突如「冬のソナタ」のテーマ曲がピアノで生演奏されたこと。そのサービス精神にすっかり舞い上がってしまいました。




2021年9月14日火曜日

長兄の突然の訃報(9月9日’21)

  9月12日の昼下がり、長兄の長男から珍しく電話が入った。「・・実は、父が亡くなりました。・・」晴天の霹靂とはこのこと。余りに急な事態が起きたことにショックを受けた。約一カ月前、忘れもしない、8月3日の日に、三人の兄たちと夫々続けざまに電話で近況を話し合ったばかりだったので、信じられない知らせであった。あの時は、私自身がご無沙汰していた所が、この酷暑に耐えかねて、兄たちに長文の暑中お見舞いを出したところであった。それに対して、夫々が電話をくれたのであった。甥とバトンタッチした義姉がしっかりと長兄が亡くなった8日から9日未明にかけての事の成り行きの詳細を話してくれた。実は9月9日朝に救急車で運び込まれた病院で死亡が確認された。コロナ患者を看護している病院でもあり、家族は病院の外で待機したままの状態で、兄は一人で逝ってしまったのである。コロナ禍の中、お通夜と告別式は子供たち、孫達だけで執り行い、お骨を自宅に納めたところで、兄弟たちに知らせているところだという。

 人の一生というのは不確かなもの。命のはかなさをつくづく思った。あれこれ漠然と死について思いが彷徨い、行きついたところは、命が生かされている限りは、一瞬一瞬を大切に生き抜くことが私達の使命だということである。死んでしまえば死者には後悔はないが、遺された者が後悔しないように生き抜くことであろう。長兄は享年88歳。寿の年齢である。急逝ではあったが、二人の子供達、孫達もしっかり成長して、幸せな日々を送ったに違いない。最期に会えなかったのは口惜しく、残念であるが、88年の生涯を全うしたことに、お疲れ様でしたと言いたい。

 私は、すぐ、長兄へのお別れの言葉をしたためた。

【 克実兄上様

 九月十二日の昼下がり、珍しく悟朗君から電話がありました。

「河合さんですか。あっ、慶子叔母さんですね。ご無沙汰しております。・・・実は父が亡くなりました。(えっ⁈) すぐ連絡をしようと思ったのですが、このコロナ禍にあって、お出かけいただくことは出来ないので、子供たち、孫たちだけで、お通夜、告別式を終えた今、連絡を差し上げる次第です。報告が遅くなりましたが実は九日に亡くなりました。・・・」

 余りに突然の訃報に驚き唖然としてしまいました。悟朗君に代わって都亥子お姉さんから、九月八日夜から未明にかけてのお兄さんの様子を詳しく伺い、こんな急な最期を迎えるなんて信じられませんでした。八日の夜、九時頃、いつものように自分の部屋で就寝し、十時半頃一度トイレに起きて、その後、いつものように、寝室に戻ったそうですね。でも、その夜は、お姉さん、何故か眠れなくて、お兄さんの部屋に行くと、いつもの様子だったので自分の部屋に戻られたそうです。それでも、胸騒ぎがして、行ってみると、脇腹が痛いと言うので、横になる姿勢をいろいろ変えて看たそうです。そのうち、「もう大丈夫、おかあさんもはよう寝えや。」と声をかけたそうですね。深夜に、もう一度気になってお姉さんがお兄さんの部屋に行って見ると、口を開けたまま寝ていて、何か異常を察し、側に行って見ると呼吸はせず、脈も止まっているのを知って驚き、救急車の手配をしたのだそうです。

 それからはすぐ来てくれた救急車に乗せて、病院探し。コロナ禍の中で、幸い近大病院が受け付けてくれたそうです。ただ、やはりコロナ禍にあって、お兄さんだけが院内に入り、お姉さんは外のテントの中で待機する身となりました。やがて、優子ちゃんも駆けつけてきて、一緒に待機したものの、その時の心配と不安と恐怖の気持ちを思うと、想像を絶するものがあります。そのままお兄さんは、一人で逝ってしまいました。お姉さんに掛けたあの言葉「大丈夫、おかあさんもはよう寝えや!」が最後になってしまった、とお姉さんは悔しい気持と共に、優しい響きが胸に残って、救いになっているとも言われました。

 長男として、何かにつけ、陣頭指揮を執り、頭が良くて、小さい時からリーダーシップがあったと昔、美喜子お母さんからよく聞かされました。頼りがいがある子供だったと。私の中でのお兄さんは、川本時代、お兄さんが京都で大学生の時、夏休みにはしっかりアルバイトをして、沢山お土産を買って帰省し、弟妹にプレゼントをくれたこと、和菓子屋でアルバイトして羊羹の作り方を覚えて、実際に帰省した時、皆に作ってくれたこと、又、私が大学生の時、就職した時、大阪の生地問屋に連れて行って、スーツ、洋服の生地を買ってくれたこと、などなどいろいろ面倒を見て可愛がってくれました。そうそう、私が赤ん坊の時は、遊びたい盛りに母から子守を託された時は、背中に私を縛り付けて、屋根の上でチャンバラごっごを近所の遊び友達とやったり、私を寝かせるために、トンボとりの手法で目を回させて寝かしつけて、遊びに出かけたとか、子供の知恵を絞って、うまく、母親の言いつけを全うしたとのこと。まだまだエピソードは沢山ありますが、私の拙著である「外交官の妻として・・・家族とともの歩んだ世界」の中に書いているので読んでくれていることと思います。沢山お世話になりました。想い出は尽きません。本当にありがとう。

 享年八十八歳。寿の年齢です。お疲れさまでした。どうぞ安らかにお眠り下さい。

 心からご冥福をお祈りいたします。                   合掌     

                     令和三年九月  妹 慶子より  】


2021年9月7日火曜日

パラリンピックも予定通りに閉幕(2021年9月5日)

 2021年9月5日(日)

 いろいろ問題を抱えたままTOKYO2020が開催され、無観客で繰り広げられてきたオリ・パラでしたが、始まってしまうと、コロナ禍で自粛生活を余儀なくさせられた一般国民は、メディアを通して、テレビ観戦を通してだけ、この特別な世界スポーツ大会の様子を知ることになった。スポーツ大好き人間の私は、毎日、殆ど一日中、テレビの前で、熱狂的にアスリート達を応援した。子供たちとラインでコミュ二ケーションを取りながら、子どもたちと同じ目線になって興奮した。手を叩きながらの観戦であった。人間の肉体的限界はどこにあるのだろうと思うほど、WRはどんどん更新されていく。真剣さ、とその努力に感銘しまくりであった。特に、パラリンピックでの感動は凄かった。科学の進歩と人間の能力のコラボには驚嘆せざるを得ない。一人のアスリートにそれぞれの環境があり、多くの人が拘わり、チームとしての闘いである。人間が時代を進歩させ、時代が人間を進歩させている。総合芸術ということばがあるが、今回の大会をじっくり観て、スポーツも総合芸術であると思うようになった。逆境を乗り越えた水泳のパラアスリートの言葉が胸を打つ。パラリンピックで金メダルを取った時、一人の少年が近づいて彼に言った言葉がある。健常者のその少年は、「あなたのようになりたい。なるのが夢です」と言ったという。又、砲丸投げの金メダリストは一番大切なものは何かと訊かれて、「僕の両親です」と答えていた。そこには感謝の心しかないのである。アスリート一人一人にはストーリーがある。そのストーリーを理解してこそ、彼らの凄さは一層凄いものになって、人々に感動を与える。

 オリパラが完全に終わって、聖火が消された時は寂しさを感じながらも、何か、清々しい気持ちであった。日本の最先端の技術を駆使した映像が、多様性の調和と平和の連帯性を世界中に流したと信じている。

 ボランティアとして選手たちの傍で活動した娘夫婦も、全てが終わってオリ・パラロスになるほど、やはり、貴重な体験をした様子。以下紹介したい。

 <オリンピック・パラリンピック大会ボランティア回顧録>康子の投稿より

 幕張メッセでのオリ・パラの大会ボランティアに7日間参加しました。シフトは前半は早くて朝7amから、後半は遅くて22:30までのシフトでした。 オリンピックでは、テコンドーの競技コート内の競技者のミックスゾーン(メディア)へのご案内。

 パラリンピックでは、車椅子フェンシングと、ゴールボールのプロトコルチームに所属。(主な役割としてIOC(国際オリンピック委員会)、NOC/NPC(各国オリンピック・パラリンピック委員会)、競技団体、王族、政府首脳などの要人を受け入れて様々なサポートを行う語学を使ったボランティアを担当しました。

(バッハ会長や、元柔道金メダリストで元JOC/日本オリンピック委員会会長とお会いすることができました。)

 夫婦共に初めての国際大会のボランティアでしたが、与えるより受けることの方が多かったと思うほど貴重な経験をさせてもらい、一生忘れられない思い出ができました。

  ボランティアでご一緒した方達は、素敵な方達ばかりで、老若男女を問わず親しみやすく、外国の方に笑顔で接したり、試合に勝った選手の現地の言葉を調べて「おめでとう!」と声を掛けたりと皆前向きで積極的で、とても刺激を受けました。(English&Frenchの語学ボランティアの腕章をつけている学生さんもいました)

  もうすでにオリ・パラロスです。

オリ・パラボランティアを通して、11の世界の方々との交流が世界の平和に繋がっていくんだろうなぁと実感しました。また機会があったら夫婦でボランティアに携わりたいです。

2021年9月1日水曜日

「古の京都girls」ネットお喋り会 2021年8月31日(火)

 昭和40年(1965年)京大卒業の親友4人が、偶然にもこのタイミングで、ズームミーティングをスタートしたのが2020年9月15日。私は会の名称を勝手に「古の京都girls」と呼んでいる。その時は確か愛知県在住の康子さんがホスト役。その後、私が引き受けたりしたが、幸いに、この年代で、ネット操作が出来るのはありがたい。子供たちとのコミュニケーション維持のために、子どもたちの指導を受けながら、喰いついてやってきたおかげである。今どきの利器を使うことを怠ったら、どんどん社会から置き去りにされるばかりではなく、自分自身が退歩していくばかり。とはいうものの、最初は4人が一斉に、スムースにzoom上でピタリと歩調を合わせてスタートしたとは言えない。愛知県の康子さん、フランス在住の茂子さん、府中の寛子さん、そして日光市在住の私。zoom が開けなくて手間取ったり、音が出なかったり、お互いにいろいろ失敗を重ねながらでしたが、2月に徳島の幸子さんが加わって5人のグループになって佳境に入り、積極的な彼女がホスト役を買って出て下さったおかげで、10回目の昨日は全員が一斉にスタートラインに立つことが出来た。毎月最後の火曜日、日本時間で夜8時半、フランスは7時間の時差のため、午後1時半スタートが定着してきている。めでたしめでたし。

ところが、昨日のチャットで話題になったTOKYO2020に対するコメントを聞いて、大変なショックを受けてしまった。そもそもオリンピック開催の是非が問題にされてきていたが、開催が決定されたからには、この状況下で最善を尽くして、最大の効果をあげるべき方向に舵取りを定めてローンチした筈である。スポーツ好きの私は、そんな中で、毎日の競技を最大限、テレビ観戦しながらアスリート達を応援した。個人競技にも熱が入ったが、やはり、マスゲームには、我を忘れるほど、身を乗り出し声を挙げ、拍手をしてその場には届かない声援を送ってきた。不思議なもので、オリンピックとなると、やはりナショナリスティックになって、日本を応援する。サッカー、野球、ソフトボール、ラグビーから水泳、卓球、テニス、ボクシング、柔道、陸上、、可能な限り、競技は見まくり、目と頭が朦朧とするほどに熱狂する。記録が毎回更新されるにつけ、人間の体力、能力には限界が無いように思えて感動する。パラリンピックに至っては、科学の開発と本来の人間の能力がコラボしてやはり記録は更新されていく。殆ど信じられない世界がそこにある。感動せずにはいられない。

しかしながら、このzoom meetingの仲間は、殆どテレビ観戦していないという。オリンピックの開会式、閉会式もさっと見た程度で、内容を評価していない。コメントが至って冷静で完全に大人になりきっているのか、感動が無い様子。私は、話が盛り上がるとばかり期待していたこともあり、愕然とした。言い換えれば、私は、幼稚っぽいのかも知れない。(子供たちと感想を言い合った時は、心が通じ、分かり合えた。感動を共有出来て、嬉しかった。)開会式、閉会式の自分の感想は、このブログ上で、先に記述しているように、私は、十分楽しみ、少々違和感があった部分はあったとしても、全体的に、素晴らしかったのではないかと思っている。それだけに、昨日の意見交換(?)ではショックを隠し切れなくて、思わず、「うそ!えっ??」と画面上で叫んでしまったほどである。年齢を重ねると、一般的に、背俗離れして、第三者的な、批判的な物の見方になると言われる。私は、物理的には確かに年を重ねてはいるが、キャーキャー言いながら、アスリートを必死で応援するほど、精神的には、まだまだ若いというより、幼いのかもしれない。ショックは受けたが、ここまで書いてきて、これでいいのではないかと思い始めている。唯一、彼女たちから同感を得たのは、クローズイングで次の開催国パリへのバトンタッチの仕方が、最新のデジタル技術を使ったアイディア溢れる動画映像へのエールであった。