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2012年4月29日日曜日

三毛子 (19)

ブルネイにいるおとうさんやおかあさんはわたしのことを心配していたようで、ことあるごとにわたしの様子を聞いていたようである。ブルネイはイスラム教の国なので犬は受け入れられないけど、猫はとても可愛がるという。マレー語でクーチンというらしい。何だかかわいい言葉に聞こえる。ペルシャ猫という仲間がいるが、階級を意識した猫なのだろう。フンとおすましした格好のいい部族かも知れないが、三毛猫は愛くるしい。茶色と黒と白の三色がわたしの場合、誠にバランスが取れていて良いようである。目はぱっちりと緑色。タキシードを着たように胸元は逆三角形に白い。足は白いソックスをはいたようで、おとうさんが最初に四兄妹の中でわたしだけ三毛だったところに目をつけたのはこの色のバランスの良さで、末永く疲れないということだった。

おとうさんとおかあさんはどうしているだろう。いつわたしのところに戻ってくれるのだろうと時々おもうこともあった。でもわからないことをしめっぽく思い悩むことはやめよう。わたしはわたしのペースで生きていくしかないと自分に言い聞かせるまでに成長していった。

ニューヨークに赴任していた時は無かったことだが、ブルネイの場合、発展途上国に勤務ということで、おとうさんとおかあさんは健康チェックのため一時帰国の機会があった。丁度一年半ぶりに我が家に戻って家族との再会をしてくれた。わたしも家族の一員として「ミーちゃん、一人にしてごめんね。でもよくお留守番できるのね。凄いね!」といいながら、ひざをまげておかあさんが覗き込むように声をかけてくれた。「ニャーオ! 感激!」久しぶりでもちゃんとおとうさんのこともおかあさんのことも覚えている。二人とも全然変わっていない。言葉も洋服も出発の時と同じだったので、わたしも安心した。

2012年4月28日土曜日

三毛子(18)

水とペットフードはたっぷり置いてある。わたしを一人にしてから、ベランダの窓は閉じたままになった。残念ながら自分で開けたり閉めたり出来ないので、窓からカラスや変なものが入ってこないようにおねえさん達が閉めて行った。全くの籠の鳥というよりアパートの猫になってしまった。窓の下の部分はすりガラスなので外が見えない。4LDKのメゾネットを一人で住むことのむなしいこと。一階の台所の餌場から、二階のリビング、三階の寝室を上がったり降りたりしながら一週間を過ごす。キンコーンとドアのベルが鳴ると、耳をすます。息をのんでかまえていると、足音が遠ざかる。毎日、この緊張感を経験する。


そして週末になると二人のおねえさんとお兄さんが一人ずつ交代でやってくる。わたしにはたまらない時である。三人の顔はちゃんとわかる。声もききわけることが出来る。「ミーちゃん、お利口さん!今トイレをきれにしてあげるね。」とか、「今日は猫草を持ってきてあげたよ!」なんて声をかけて頭を撫でてくれる。一週間のストレスが吹き飛んで行く。誰かが帰ってきて、わたしと遊んでくれる週末はわたしが生き返る時であった。でもそんな時間はすぐ去ってしまう。一泊だけして都心の下宿に帰っていく。本当につらかった。

こんな生活が一年もよく続いたと思う。ベランダの窓は夏場は少しだけ開けっ放しにしてくれたので涼しい風が入って来たし、時々ベランダでお昼寝をすることも出来た。最初の頃は、ドアに誰かの気配があると、シーンと耳をすまし、神経がピリピリしていたけど、慣れてくるとあれはおねえさんの足音だとかすぐわかるようになり、コトコトと階段を駆け降りて玄関でちゃんとお座りして待つようになった。するとおねえさんもおにいさんも一層わたしをかわいがってくれたような気がする。



2012年4月26日木曜日

三毛子 (17)

今度はお父さんは日本の国旗を背負って仕事をする大使の立場で赴任していくので、その準備が大変そうだった。ただ、今度は公邸に住むので家具や食器の心配はいらないので、荷物は少し減っていた。公邸ならやはりわたしは行くべきではない。ソファーや壁を爪でひっかいたりしたらとんでもないことになる。緊張しっぱなしというのは私の性分に合わない。日本に残るという決断は正しいと思った。

 しかし、ここからわたしの試練が始まる。最初の一年間はおねえさんもおにいさんも一緒だったので、毎日、安心して過ごすことが出来た。これはわたしだけの勝手な気持ちだけど、おねえさんはジョッブハンティングで試験を受けたり、面接を受けたり、大変だった。おにいさんも大学受験で塾に通い、一生懸命だった。二人ともストレスがあって、家の中は緊張の糸がいっぱい張ってあって、わたしはそこをくぐりぬけながら生きていかなくてはならない。努めて一見ゆっくりのんびりしていたことが二人には息抜きになっていたようで、わたしにはやさしくしてくれていた。

おとうさん、おかあさんの留守番を始めて二年目には、おねえさんもお兄さんもそれぞれ職場や大学に近い場所に下宿生活することになってしまった。わたしはどうなるの? 多摩の家にわたし一人を置いていくつもりらしい。おねえさんもおにいさんもみんな自分のことで精一杯でわたしを連れて行く余裕はない。五歳になったわたしはみんなと成長年齢は同じくらいなので、わたしも独立出来る筈である。一人になればそれなりの生活は出来るだろうとわたしなりに必死で考えた。餌があって、排出するところがきちんとあればやれる筈である。おねえさん達はこれだけはしっかり忘れないでやってくれることを信じて覚悟した。

2012年4月24日火曜日

三毛子 (16)

三毛子 (16)

その頃、京都の大学にいた上のおねえさんが卒業して東京の家に戻ってきた。下のおねえさんも合流して多摩の家はにぎやかになってきていた。おにいさんも六月にアメリカの高校を卒業して帰ってきたので、家族全員そろったところだった。上のおねえさんはこれからジョブハンティングに入るし、お兄さんは日本の大学を受験する。こんな時に、おとうさんとおかあさんは又海外で仕事をすることになり河合家は落ち着かない。おねえさんもお兄さんも日本に残る。わたしはどうするの?一大事である。ブルネイに連れて行くとか行かないとか、あれこれ調べて迷っていたみたいだが、結局、連れて行かれないことになった。何でも、ブルネイというところはイギリスの統治下にあったので、動物の検疫が厳しくて、検疫所に三か月も六か月もいなくてはいけないんだって。そんなことしたら、ミーちゃんは死んでしまうというのがみんなの意見だった。

おねえさんやお兄さんが「日本に置いていったら?」と言ってくれた時は、嬉しいような悲しいような。おかあさんの側にいられなくなるのが何とも悲しい。でもわからない所に行って肩身の狭い思いをするより、自由に、我が家の主でいられる方が私には向いている。みんなはわたしの意見は聞かなかったが、とうとうわたしは日本に置いて行かれる結論になった。おねえさんやお兄さんが一緒なら平気だった。餌をもらえて、水もあって、トイレもきれにしてくれる人がいればわたしは何とかやっていける。おかあさんもさびしいかもしれないけど、わたしは大丈夫だから。そのような気持ちを伝えたかった。

別れては会い、又別れる。河合家はずっとこれを繰り返して行くのだろうか。ずっと一緒にいられたらいいのに。でも、おとうさんが外交官なのだからお国のための仕事をずっとやっていかなくてはいけない。河合家より先に、お国がある。おねえさんやおにいさんはつらいのに、大丈夫だからと言って頑張っているのが本当にけなげである。

2012年4月22日日曜日

講演活動

4月21日(土)
今日も花曇りの中、宇都宮まで出かけた。日光宇都宮道路の春景色は淡い色に染まり、新しい季節の到来を告げていた。あの厳寒の冬が嘘のように、自然はしっかり命を繋いでいることを実感。

今回の夫の講演はWFWP栃木連合の20周年を祝う春の集いに招かれてのもので私も同行した。今までのキャリアからの経験などを踏まえた話をということで「世界は広い、学ぶことは難しい、だから面白い」という演題にしてDVDやパワーポイントを使いながらのビジュアルな構成で、大学での授業に参加しているようなわかりやすいものであったと思う。外交官という職種が一般には特殊にとらえられがちであるが今回の話で多少それが払拭されたのではないだろうか。どこの国にいても誠実さと関心を持って、人と文化を理解することが日本の国益につながって行く。その過程で多大の勉強と努力が必要になるが、だからこそ、知らないことがわかり面白さが生まれる。こういった内容の話はむしろ若い人達に聴いてもらいたい気もする。それこそ、高校生あたりを対象にやれるといいと思った。

WFWP(世界平和女性連合)という国連の経済社会理事会の諮問資格を有するNGOで活動するご婦人達が国外国内で幅広く女性のエンパワーメントに取り組んでいる様子をプロモーションビデオで拝見したが、シニア世代の女性が中心になっての活躍ぶりで素晴らしいことだと思った。70代、80代の方がマジョリティーとなっている印象である。若い人たちへの啓蒙と支援活動が出来るのは人生経験が豊富であるばかりではなく愛情と意思がある人達であり、そういう世代が育っていること自体が大変喜ばしく、励まされる思いがする。

三毛子 (15)

三毛子 (15)

成田の税関も問題なく、するりと出られた。もう日本語の世界。といってもわたしには関係ない話。わたしはとにかく一刻も早くバスケットから解放されて、自由になりたかった。 

成田からは車で多摩へまっしぐら。あたりは暗かったから、夕方から夜にかけて到着したように思う。おねえさんが一人東京にいる筈だが、その時は都合が悪く、多摩のアパートには誰もいなかった。多摩を出た時と同じ所で、わたしはすぐ思い出した。一歳半でニューヨークに行ったのでもう四歳だ。メゾネットのたたずまいは特殊で最上階のアパートの中は、実は、三階になっている。階段が二つあるのである。この階段が記憶の中にあり、わたしは階段を上がったり下りたりして自分の住まいに戻った感触を確かめていた。やったー! 自由だぞ!って感じで。

次の朝、ニューヨークを出発する前に起きたことが又起きた。お母さんが腰が痛くて動けないのである。重いスーツケースを運んだのがいけなかったのだろう。すぐ、近所の整骨院に這うようにして行った。今度は漢方の針灸治療ではなく、電気じかけの治療だったようで、すぐには治らなかった。帰国して忙しい時に、何度か通院して、徐々に治っていった。おかあさんは以後、重い荷物は持たないように自分で注意するようになった。

日本での生活がスタートしたかに見えたが、おとうさんとおかあさんはそれから三か月して今度はブルネイという東南アジアの国に行くことになった。

2012年4月21日土曜日

三毛子(14)

三毛子(14) 

  サンフランシスコではおとうさんの友人のところに一泊、あとの二泊はあのローズマリーのアパートだった。ローズマリーとご主人のディックは毎年、夏はシスコにいた。ディックがスタンフォードで研究チームに入って研究を続けている。冬はアマーストの大学で教え、夏は研究生活をしながらオーケストラやダンスを楽しむ。猫にはまねの出来ない、スケールの大きな二重生活を送っている人達である。

  彼らのアパートにいる時、わたしはよそ者なので、身を低くして殆どベッドの下で過ごした。みんなは、日中は外に出かけていなかったので、部屋中をパトロールしながら沢山運動をしておいた。部屋がきれいにしてあるので、よごさないように気を遣った。どこに行っても、わたしのトイレはおかあさんが用意してくれるので本当に安心だった。それにしてもあの人達は毎日どこを歩いてくるのだろう。車で出かけて、ナッパヴァーリとか言っていたけど、ワインを買ってきたりしていた。わたしには、おみやげはないが、無事に帰ってくるとやはりホッとし、安心して寝ることが出来た。今気が付いたが、ほかに猫はいないのだろうか。アメリカにきて、一度も他の猫を見たことが無い。わたしは本当は天涯孤独な猫なのである。でも、淋しいと思ったことは無い。強い猫だと自分でも思う。

 サンフランシスコから成田までは長かった。バスケットの中に入れられたまま、無駄なボクシングをやり続けた。おとうさんはそうでもなかったが、おかあさんは周りの人に気をつかって、わたしを静かにさせようとするがこれも無駄なエネルギーの消耗となった。我慢して下さい。これだけは猫のバカなところで、自由を奪われると無駄な要求と知りつつもマイペースで要求し続けてしまう。時間が解決してくれるということがわからないのがつらいところである。

2012年4月19日木曜日

三毛子 (13)

三毛子(13) 

 二時間もたたないうちにおかあさんは戻ってきた。しかも、何事も無かったかのように、いつもの良い姿勢で部屋に入ってきた。嬉しいというより驚いた。あのエビのようにまるくなって苦しそうだった体はすっかり伸びていた。何十本かの針を背中にさしてもらったそうで、刺した後、三十分後には、嘘みたいに痛みがきえたようだ。夕方帰宅したおとうさんにそんなことを言っていた。良かった! おとうさんだけでなく、わたしもホッとした。これで二日後にせまった帰国の途に予定通りつくことが出来る。それにしてもこれからも起こり得ることなので、おかあさんには無理をしてほしくないと思った。おかあさんの膝に乗って一生懸命甘えることにした。

 お兄さんはそのままニューヨーク郊外にある週末だけお世話になるYさんのお宅に移り、わたしたち三人はケネディ空港を飛び立った。出国手続きは健康診断書と予防注射証明書を見せるだけで、おとうさん、おかあさんと一緒に税関を無事通過。機内は広くても狭くてもわたしには関係なかった。わたし専用のバスケットの中に入れられたままの長旅である。でも、ニューヨークへ行くときは、成田からケネディまでノンストップで長時間、バスケットのすきまから手を出してボクシングをやりながら大騒ぎをした。今度は一度、サンフランシスコで降りたのであまり騒ぐ時間は無かった。でも泣き続けたので喉がかわき、こつのわかったおかあさんは私をバスケットごとトイレに連れ込んでくれた。狭いトイレの隅に、水を入れたコップを置いてくれたのですぐ飲むことが出来た。飲むと人間と同じように、トイレがしたくなる。そこもわかっていて、おかあさんは砂を用意してくれた。飛行機の中で、こんな細かいことをする人はいないだろう。おかあさんはちゃんとわたしが必要とすることをやってくれた。人間の言葉で世話をしてくれるが不思議なことに私にはそれがわかり、質問することもなく、問題はクリア出来た。おかげで、飛行機の中でもそそうすることもなく、立派なパッセンジャーでいられた。

2012年4月17日火曜日

三毛子 (12)

三毛子(12)

三章 帰国して多摩での一人暮らし(一九九六~一九九九)

 一九九六年の春、おとうさんは仕事の任期を終えて日本に帰ることになった。お兄さんは高校三年が終わるまであと二か月残っていたので、おとうさんとおかあさんはお兄さんをそれまでニューヨークに残す決心をした。アメリカでは六月が卒業なのでそうせざるを得なかったのだろう。終日は寮にいられても週末は寮から追い出されてしまう。おとさんたちは週末だけお兄さんをあずかってくれるガーディアン探しに苦労した様子だった。結局、おとうさんのオフィスにいた人のご実家の好意で、お兄さんは残ることが出来た。それがきまって、本格的に引っ越しの作業が始まった。

 わたしは本当は手を貸したかったが、おかあさんがいつものペースでどんどん荷物づくりをやり、おとうさんが運送屋を探して来て何だか二人でよくやっていたので、邪魔しないことに決めている。わたしはいつものようにトイレと食事の場所があちこち変わるのだけは注意していた。ダンボールの中にうっかり入れられない様、距離をおいて傍観するだけだった。

 いよいよ出発になる前に、わたしは出国と日本への再入国のため、何だか注射が必要ということで獣医さんのところに連れて行かれた。二年八か月のニューヨーク滞在中、一度もお医者さんに行ったことが無い。本当に久しぶりでつかの間ではあったが、外の空気を吸うことが出来た。あらためてニューヨークの空気を肌で感じた時であった。

 いろんな手続きをクリアし、おにいさんのことも一段落して、おとうさんとおかあさんはアパートを明け渡し、ニューヨークに来てしばらく泊まっていた同じホテルに私も連れて移った。スーツケースがいくつあっただろう?とにかく大荷物と一緒でわたしはその中で迷子になりそうであったが、わたしのトイレと餌はいつも忘れずに置いてくれたので、わたしに限っては何も問題はなかった。

 ところが、ホテルに移った次の朝、おかあさんがベッドから動けない。背中と腰が一寸でも動こうものなら大きな悲鳴をあげる。おとうさんはオフィスに出かけなくてはならず、心配しながらもおかあさんを一人残して出て行った。おかあさんはこのままでは治るはずもなく、うめき声をあげながらもオフィスの秘書にどこか、診てくれるくれところを探してもらうよう頼んでいた。情報は早い。早速針灸をやる人が見つかった。日本人でマンハッタンにいるという。おかあさんはすぐタクシーで向かった。おかあさんが動けなくなったら、河合家はアウトになる。わたしは本当に心配した。 



2012年4月16日月曜日

家族 Sad news coming out one after another

4月14日(土) Sad news coming out one after another

今日は昨日の夏日を思わせるような好天気とはうって変って、朝から雨が降り続いていた。いつもの時間に下に降りていくと既にミーちゃんは起きていてまだ咲き誇るシクラメンの側に置いてある水をぺろぺろ飲んでいた。「ミーちゃん、おはよう!」と朝の挨拶をかわして、わたしは二階から早朝の作業の為持ってきたパソコンを開く。拙著の翻訳を今日は終わらせようと姿勢を正す。第24章「 大阪で母と暮らした最後の一年」を訳し、そのまま「あとがき」、更に「追記」、そして「特別記述」まで一気にやり終えてしまった。「特別記述」は5月31日付けとした。この日は私たちの結婚43年記念日。けじめとしてこの日を設定してみた。翻訳のドラフトはとりあえず保存するに留めておいた。あとでチェックしてローズマリーに送ることにした。

この日のミーちゃんは朝から外に出たがっていた。リビングのガラス戸を一寸開けてやると、出ては見るが外は少々寒く雨なので、すぐ戻ってくる。でも又せがむ。殆ど一日中この繰り返しであった。

一寸息抜きに、高校時代の友人に電話を入れた。3日前に金子みすずさんの詩の朗読を入れたCDの件で手紙を出していたので、その確認の意味だった。10日ほど前に彼女から久しぶりに電話があり、肝臓の検査結果は良好だったと嬉しそうな報告があった。このCDの話もあったのでその件で手紙を出したところであった。そのあとで、携帯にメールも入れておいた。でも、いつもすぐ反応してくれる彼女には珍しく音沙汰が無かったので、こちらから携帯に電話してみた。驚いたことに、携帯に出たのは彼女の御嬢さんだった。「母は今入院していて出られません。階段から落ちて頭を打ってしまいました」。話しぶりからかなり深刻そうだった。大変なことになってしまったと心配しているところへ、別の同窓生から電話が入った。わたしに彼女の入院騒動を知らせてくれたのである。意識不明だという。ますます心配になる。彼女は私の家族史の本を印刷するよう勧めてくれた人であり、いろいろお世話をしてくれた人である。この本が縁で旧友との交流が復活していたのである。

午後に、夫の大学の卒業生が父親と来訪。就職の朗報であった。1時間ばかりおしゃべりしたが、この時のミーちゃんは私にせがむように私の膝にのり、手で私の顔を自分に向けさせて、真剣に甘えた表情になる。このしぐさはこの数か月頻繁に示すようになっていた。何か語りかけているようにも思えた。一方、外に出たい意思表示も今日は頻繁にあった。外に出たり入ったり。夜になって雨は止み、彼女は出たり入ったりを繰り返していたが、ふと気が付くと、彼女の姿が見えなくなった。12時頃、もう寝ようと二階に上がる前に、もう一度外を見たが姿が無かったので、多分家の中に入っているだろうと思ってそのまま戸を閉めて休んだ。

翌日、朝早く起きて探したがやはりいない。もしかして出て行ってしまったのかも。という懸念がよぎって何とも胸が苦しく切なくなっていく。あと一週間で二十歳になるというのに。しかも、まだまだ病気一つせず、身の回りのことは全部自分でやってのけ、時には、ふざけるように走ったりしていたのに。猫の習性でその時が来ると、自分で身を隠すというのは本当だろうか。それにしても、あまりにあっけない顛末である。介護で私たちに苦労をかけたくなかったのだとしたら、こんなにできた猫はいない。今までも彼女から人生哲学を少なからず学んでいるがこれが本当に最期だとしたら彼女は凄い猫だったというしかない。彼女になりかわって書いているAutobiographyはまだ中途である。彼女への鎮魂歌として最後まで書き続ける決心をしている。 (今はまだ、彼女がひょっとしたら戻ってくるかもと待っている。)

2012年4月14日土曜日

三毛子 (11)

三毛子 (11)

 昼間留守にしていたおかあさんが帰ってくると、必ずわたしはおかあさんに駆け寄った。しっかり抱いて貰って安心する。猫だってやっぱり長く一人でいると狂おしくなる。おかあさんの膝の上で嬉しさから喉をゴロゴロ言わせながらくつろぐひと時は至福の時であった。
 ニューヨークには、日本からもおねえさん達がそれぞれやってきた。下のおねえさんは大学生だったので、一年休学してニューヨークで留学した。上のおねえさんは、おとうさんの田舎の親戚を連れてやってきた。義母と二人の義姉と孫だったが、この義母は当時、八十六才であったが、足は強かった。どこでも歩けた。以前、私がまだ生まれる前、河合家はパリに勤務したことがあるが、その時、このおばあちゃんは初めて海外旅行した。やはり、一緒に住む義姉が一緒にパリに行ったそうだ。七十八歳だったと聞く。パリのシャンせりーぜ通りを健脚でよく歩いたそうだ。観光ならニューヨーク、パリというのが日本では定番だったのだろう。パリに息子がいるのだから大決心で飛行機に乗ったようだ。わたしもニューヨークに来るときのあの空の旅は不安だった。そしておばあちゃんは今度はニューヨークへ。その時、おばあちゃんは八十六歳という計算になる。

日本からの泊り客がいる時は、わたしも落ち着かなかった。特に田舎の孫はまだ幼稚園に行っていたぐらいだから、うるさくわたしに付きまとってわたしのペースが随分乱された記憶がある。わたしは玩具にされるのは苦手であった。自分のペースで付き合える程度の相手が理想である。その点、おかあさんはわたしにぴったりだ、つかずはなれずの関係だからこそ、この自分史を書いている二十歳になった今でも、自分を失わないで強く長く生き続けられている。
 
アマーストからおかあさんたちの無二の親友であるローズマリーとディックもやってきた。わたしは初めて会ったがおかあさんが二十八年前、まだアマーストで学生だった時、二年間もかれらの家族にホームステイしたのだそうだ。彼らも猫を飼っていて、やはり、べったりではなく、あっさりと、でもハートのある付き合い方をしている様子だった。類は類を呼ぶなんて生意気なことをいうようだが、猫だってそれはわかる。おかあさんたちがアマーストに行った時、わたしも行ってみたかったが、残念ながら、わたしは一人で留守番だった。四、五日の留守は誰のお世話にもならないで、何とか出来た。今思うと、このころから、わたしにはそういう運命が待っていたのかも。日本に帰ってから厳しい猫人生が待っていたのである。 

2012年4月11日水曜日

三毛子 ⑩

三毛子 ⑩

 ニューヨークでの私の生活は優雅であった。リビングの窓の桟に座ってマンハッタンの三十六と三十七ストリート間のセカンドアベニューを見下ろして、人の行き来を眺めるのが日課であった。昼間はお父さんは勿論仕事で出かけていないし、お母さんもじっとしていない。お兄さんは週末しかいないし、広いリビングはわたしの自由になっていた。窓辺で下界を眺めるか、部屋の隅に置かれたプラントの影で寝そべるか、ソファーに沈んでなりゆきに身をまかせるか、あるいはいつものベッドの下で静かに夢の世界にひたるか、自由自在とはこのこと。でもディナーパーティーが我が家である時は、自分で身をひいて寝室でおとなしく待機する習慣も板についた。

そんな生活が二年半続いた。その間、わたしは一度も外に出たことが無い。窓辺から見るマンハッタンは、時にはビル風が強くて冬などは本当に寒そうだった。暑い夏もあれば、日差しがあって気持ちよさそうな季節もあっただろうが、ずっと中で籠の猫として言ってみれば優雅に過ごしたものである。一度だけ、おとうさんもおかあさんも居ない時が二週間も続いたことがある。あのバカンスという休暇をとってどこかへ行ってしまった時だ。でも、それはそれでわたしのことを心配して、同じビルに住む日本人のお友達が、毎日、水と食料の追加に訪れてくれた。トイレも掃除してくれた。彼女に顔を出して挨拶しなかったことを、今では反省するばかりであるが、あの時は密かに感謝していたものである。わたしはいつも守られているということを感じて安心していた時である。

 わたしにとってのニューヨーク生活は、日中はリビングの窓辺からマンハッタンの三十六丁目と三十七丁目間のセカンドアベニューを眺めるだけのものであったが、夜はいろいろなお客様が来て、賑やかな話し声に圧倒されたものである。そんな時は別室で静かに時を送っていたものである。

2012年4月10日火曜日

三毛子 ⑨

 三毛子 ⑨

  わたしたちのニューヨークでの住まいは国連本部に近いところに決まった。おとうさんとおかあさんが毎日のように出かけて探し回ってやっと見つけたところだ。コリンシアンという高層ビルの十七階のアパートで3LDK。とにかくお父さんの仕事の関係で、沢山お客さんがむかえられるよう広いリビングがあることが一番の条件だった。このコリンシアンというビルは半分弧を描いた形になっていて、リビングの形が半円形の形になっていた。モダンな印象を与えていたが、その分、家具のレイアウトは難しそうだった。

家具のないアパートだったので、おとうさんとおかあさんはその後もベッドや机、ソファやディナーテーブル、食器棚など、必要な家具を探し回って結局落ち着くのに二か月はかかったように思う。お客様が出来るようセットアップするのは本当に大変そうだった。わたしは今回、初めて一緒に海外に出たが、今までは勿論、これからも何度か二、三年ごとにこのような引っ越しを繰り返すことを思うと、同情してしまう。それでも、おとうさんとおかあさんは、そんな生活を当たり前のように思っているのか、弱音をはかず、いつも動き回っている。

わたしは、せめて足手惑いにならないよう、側で静かに成り行きを眺めていた。わたしの関心事は、わたしの寝床とトイレがどこに設置されるかだった。食事と水はどこでもいい。おかあさんの気の向いた場所に置いてくれれば、わたしはすぐ探し当てることが出来たし、食べる場所は余りこだわらなかた。寝場所は人目につかない、静かな所を自分で見つけていたし、トイレはお客様の迷惑にならないよう、隠れた場所におかれたので、気兼ねすることなくマイペースで通うことが出来た。私に関しては、何も問題はなかったと思う。病気をしないよう、自分の健康については自分で管理できるよう心掛けたつもりである。その証拠に、二年数か月後に日本に帰国するまで、検疫所用に健康診断と注射を打ってもらう以外、具合が悪くて病院へ行ったことは一度もない。



ニューヨークでの私の生活は優雅であった。リビングの窓の桟に座ってマンハッタンの三十六と三十七ストリート間のセカンドアベニューを見下ろして、人の行き来を眺めるのが日課であった。昼間はお父さんは勿論仕事で出かけていないし、お母さんもじっとしていない。お兄さんは週末しかいないし、広いリビングはわたしの自由になっていた。窓辺で下界を眺めるか、部屋の隅に置かれたプラントの影で寝そべるか、ソファーに沈んでなりゆきに身をまかせるか、あるいはいつものベッドの下で静かに夢の世界にひたるか、自由自在とはこのこと。でもディナーパーティーが我が家である時は、自分で身をひいて寝室でおとなしく待機する習慣も板についた。

2012年4月9日月曜日

日光清風塾 第13回塾長講話会

日光清風塾 第13回塾長講話会(中国での講義から帰って)

今回は3月5日に西安(長安)に入り、西安外事学院と西安外国語大学の二か所で講演を行ってきた河合塾長が中国の学生を相手にした講演をもとに、最新の中国の学生の勉強姿勢を議論。学生とのやりとりを収めたDVDや写真を紹介しながらであったので真剣、かつ生き生きした学生の積極的な様子を知ることが出来た。外事学院では約40年間、滞在した国も含めて77か国を歴訪した経験から、各国の文化社会経済政治の話を中心に、前回の講話会のテーマであった教育の問題にも触れた視野の広い見解が示された。社会の発展の基礎は道徳であり、宗教観であり、心を育てることであり、自分で学ぶ姿勢を育てることであろう。家庭での教育、本を沢山読ませる北欧の基礎教育は学ぶところが大きい。
外国語大学では日本のマスメディアを議論したことから、特に名古屋市長の南京大虐殺事件についての発言が中国では大きな問題になっていて、実際、学生から質問された時の塾長の対応は興味深かった。こういった日中間の問題は双方の認識が一致することはまず不可能。過去の出来事の認識の一致を得る議論より、今後の日中関係をどのようにするかが大きな課題だ。よい関係を築く意識があるかどうかが問題であるということ。これは結婚生活の例えから実に説得力があったと思う。上海との関係はまさに良い例である。日本のマスメディアを議論する中で、報道の自由とはどういうものかを中国の若い学生達は真剣に考える機会が与えらたのでは。国家統制下でも結構自由な発言を積極的にやっているという話は意外であった。

2012年4月5日木曜日

家族 もう一つの新しい門出 Another new start of our family

家族 もう一つの新しい門出 Another new start of our family

新年度の始まった4月早々に待っていた朗報が我が家に飛び込んだ。息子のところに待望の赤ちゃんが誕生した知らせである。約一週間遅れで生まれてきた孫は私達にとっては3人目だが、初めての女の子。2日の夜、初産にかかわらず、一呼吸で飛び出すようにこの世に登場したという。

長女とその息子を連れて浅草の
~5分咲きの桜を観賞。
バックのスカイツリーが新鮮だった。
As soon as a new academic year started, our family also got a new start. A good news came in at night on April 2nd .It was from our son and his first baby was safely born at 8:31 at night. He sounded calm down but actually he must have been excited deep inside.  The baby was the third but first grand-daughter for us.

翌日駆けつけたかったが、暴風雨の天気予報であったので、一日おいて4日に夫と千葉にいる長女とその息子ともども初対面を果たしてきた。何と小さな、でもしっかりした顔立ちで、しっかりした命をかかえている。体内にいる時から、運動が激しかったとのことで、生まれる時もジャンプして飛び出した!と新米のママが語る。生まれながらにしてなでしこジャパンの気配を感じて、一人で悦に入っていた。とにかく、母子ともに無事に難関を乗り越えたことに安堵すると同時に、感謝の気持ちで一杯となる。息子も嬉しい気持ちを隠し切れない。興奮してパソコンで作成した命名の書が側に置いてあったが、平成26年なんて書き込んであって爆笑。太陽の日差しを一杯浴びて、やさしさのそして秘めた強さの香りを醸し出すようにと願ったのか、陽香(ようか)と命名されていた。おめでとう。

The next day we wanted to go to see her but because of the weather forecast telling that there would be a terriblly strong rain and wind, we decided to go the day after. Our daughter living in Chiba came to join us with her son, 5 years old. We were able to see the newly born baby together. What a small, and fragile creature she is! But she looks  trustworthy  and very precious! According to the new mother, she had been very active in kicking around all the time in her abdomen and finally she jumped out from her mother's adbomen within one breath. She seemed to be born as an athlete. I enjoyed this report and I was happy about this exaggerated thought that she was born as a member of Nadeshiko Japan! We were relieved and grateful for the healthy birth of a new member in our family. Our son must be very happy about it. His exciting feeling was shown on the paper printed out from his PC. It described the year 2014 instead of 2012 for her baby's birth year. Upon seeing it, everybody bursted into laughter. She was given a beautiful name, YOKA, with a meaning of the bright sunshine with a aroma of gentleness.  Congratulations again!!

2012年4月1日日曜日

家族の新しい門出 New start

家族の新しい門出 A new start for our family

3月30日の金曜日、次女の新しい家が困難を乗り越えてやっと完成。その家を拝見に行った。あの古いお家の跡に立ち上がった新居は見違えるようにモダンで明るく、生活を楽しむこと優先に使いやすさを考慮したものとして立ち上がっていた。紆余曲折を乗り越えて出来上がった半分手作りのお家に夫ともども親として大喝采。孫もその家の主の如く誇らしげにわたし達をハウスツアーに案内してくれたのも感動であった。

お祝いにと思って数か月かかって彫って仕上げた壁掛け用鏡(日光彫)を持参したが、この和風の作品が果たして、洋風の雰囲気に生かされるかどうか、一寸心配。娘の旦那はおりしも同志と気仙沼に行って、子供達の為に集まった絵本を整理する本棚づくりに出かけて留守。このまだ終わっていない自分の家の引っ越しの仕事と並行してファザリングジャパンで活動している。娘もワークライフバランスを主張しながら会社務めを頑張っていて、二人とも新居をベースに子育て支援ボランティア活動を続けているのが何とも嬉しい。

 On March 30th, we finally were able to visit our second daughter's family and step into their newly built house which had been through many difficulties to clear. The house designed by her husband is proudly standing on the place where their old house used to be. We were impressed with the lovely house which looks modern and comfortable with lot of sun light coming in. Their priority went to the convenience to live in such a comfortable place where many friends could gather to share their life activities. Our grandson, 5 years old, was very proud of taking us to the new house tour with such clear instructions of each corner. He sounded cute and happy about what his parents and grandpa did for his family.

I brought in my labored work, a big mirror designed with Nikko-Bori (woodcarving in Nikko style) as a congraturatory gift but I'm afraid this doesn't match their western taste. I hope they decorate it somewhere in their new house. My daughter's husbad was away in Kesennuma for the weekend, one of the destroyed areas caused by the big Tsunami a year ago, with his comrades to work to install book shelves for children's use there as a volunteer activity.  In the midst of his own private moving works, he has been involved in volunteer activities as one of the members of the "Fathering Japan" . My daughter also has been very active in her working place as a representative of the group seeking for Work Life Balance. I'm happy about their positive children's support volunteer actitivity which which will be encouraged more by their new living circumstances.

翌日には孫の通う保育園の卒園式があり、今度年長組に進級する孫も送る側として出席するというので、爺婆もついでに出席した。11人の卒園児童を送る式はハートのあるプログラムに仕立て上げられていて思わず保護者を泣かせる。私ももらい泣きした感があった。一人一人の卒園児童が順番に卒園賞状を貰って、それぞれの母親に賞状を渡しながら言った一言が胸を打たせた。「ママ、ありがとう。いつまでも見守っていてね!」なんて言われて場内は急にズルズル状態に。一つ不可解なのは卒園児童の保護者が揃いも揃って母親ばかり。男女共同参画社会を目指している筈なのに、このかたよりは解せない。

The next day we joined an event, a graduation ceremony of our grandson's nursery school. He wan't the one to be sent off but he was in one year younger group which was to attend the ceremony to see off  their one year older friends. We just happened to be there to observe what kind of graduation ceremony could be held. Only 11 children were to leave the nursery school for a primary school in April. Upon receiving their diplomas, they approached their mothers respectively and gave them their own appreciative messages like "Thank you, mom, for your kindhelp in everything!" or "Please keep watching me from now on too!" etc. Then their mothers started being moved to tears. Oh, my goodness! We all sitting in the back were also impressed and they seemed to prepare for their own case to come next year. There was a moving scene, which also impressed us. One thing I was disappointed with was that no fathers of those children showed up at all. We are now heading for the gender equality society. Easier said than done!

その後、皆で娘の義母が入院している病院へ。久しぶりのお見舞いであったが、以前より話しかけると反応があり、これも希望の光が射して嬉しかった。

After attending the ceremony we drove to a hospital, half an hour drive away to the north, to see Yasuko's mother-in-law who has been hospitalized for several years. She seemed much better than the last time. She seemed to understand what we tried to talk to her and respond to us by moving her eyes. She might be very happy to see her grandson growing so charming and smart. God bless you!

こういう感動をもたらしてくれて3月が終わったことに感謝。

Thank you for those happy feelings brought in around us at the very end of March.