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2024年1月8日月曜日

2024年令和6年のスタート

新しい年がスタートして一週間が経過した今、やっとパソコンの前に座る。 1月1日 大晦日に遅くまで「生さだ」の番組を観て、気がついたら朝の3時。あわてて就寝したものの、6時には起床。元日の朝餉を整えるべく厨房で作業して9時には食事が出来るようにスタンバイ。しかし、夫もムナさんも起きてきたのが10時過ぎ。年末から来ていたムナさんも一緒に年始を迎え、神棚に拝礼してお節料理をいただき、ゆっくり初詣に出かけた。市営の駐車場はタイミング良く、出庫する車の後にすぐ入れられて、ラッキーな出だしに安堵。快晴に恵まれた元日の朝の山内は意外に混雑していない。アジア系の外国人が多いのと欧米の人達もかなり居たが、一般的に、若い人達が多く、晴の着物姿は皆目無かった。着飾った様子もなく、普段の出で立ちで、沢山並んだキオスクが賑やかだった。恒例の経路でまず、輪王寺に詣でる。輪王寺では珍しく、元日光ユネスコ協会会長の武田夫妻に遭遇。数年振りだったので、なつかしく、お互いに、年は重ねたものの、元気にお話が出来た。東照宮では破魔矢をゲットし、二荒山神社に流れて、お参りをする。久しぶりのそぞろ歩きは好天気に恵まれた中で気持ちよく感じていたところに、今度は以前所属していた日光混声合唱団のメンバーの佐藤さんに遭遇。古いお札を焼く一角でお仕事をされていた。あれから、二荒山神社のスタッフとしてお仕事をされているというお話だった。 二荒山神社の参道を下って帰路に。夫はかなり歩き疲れた様子で、一挙に帰宅。遅いランチの後、ムナさんは庭の土木作業の手伝い。今回は喪中はがきを出したことから、年賀状は出さなかったことから配達された年賀状の整理は無用。淋しいような、助かるような。昨夜は殆ど寝ていなかった関係で昼寝をすることに。しかし、大事件が。4時過ぎに、携帯のアラームが発生。地震警報である。寝ぼけ状態で、大地震の発生を知る。能登半島が震源地なのに日光のこのあたりまで揺れたので、相当大きいことを感じた。テレビの報道を観て、このめでたい元日に、故郷に帰省していた人達、観光客も巻き込まれたに違いない。楽しかった筈の元日が一瞬にして地獄に。まさに青天の霹靂の出来事が起きてしまった。被災された方々を思うと心が痛む。 2日は夫とムナさんはスケートに。私は厨房の仕事をして初歩きに。公園はいつもとかわらず、快晴の天気に恵まれて暖かいウオーキングだった。帰宅したら、彼らも帰宅していて、すぐに昼食。夫は足が痛くて、結局スケートはもう不可能と悟ったよう。哀れなるかな正男さん。ムナさんは小さい時にやった経験があることから、さすが、自転車同様、感覚を取り戻して、楽しんだ様子。ランチ後は、庭の地面下に電線コードを設置する作業に専念。暗くなる直前に完了。ホッ!! 3日は午前中は庭で切り株を使って木への登り階段をみんなで作る。木の枝に座れる場所を作って、展望台が出来上がった。夫の遊び心が招いた作業だったが、リスキーながら面白いと思った。ゴルフ場が一望出来る。写真撮影成功。そしてゴルフレンジに出かけて、初練習。ムナさんにとってはゴルフクラブ初握り。彼女は何事にも挑戦意欲があり、ゴルフにも関心をもったよう。さあ、どうなるか。 一端帰宅して昼食を取り、ムナさんは3時過ぎの電車で東京へ帰って行った。翌日から授業がある由。我々は、土沢へ新年のご挨拶に。甥の孫に初対面。生後一カ月。藍と書いてらんと読ませる名前とか。しゃれてるなー!おちびさん達にお年玉をあげて一段落。 4日は二人で初打ちat Linehill。スコアは良くなかった。 5日、新聞で渡邊弘子さんの訃報を知って驚愕。神林さんに電話で様子を伺ったところ、昨年末、急に体調を崩して、そのまま帰らぬ人に。心質性肺炎が病名。心室が繊維化して呼吸が困難になるという恐ろしい病気。急性であるのが死亡率が高い由。信じられない思いだった。10月末のソロプチミスト主催ゴルフチャリティーコンペで元気な姿を見たのが最期になった。人の命って実にたわいないとつくづく思った。 夕方、夫とご自宅を訪問して弔意のご挨拶。いろいろ詳しいお話を伺って、病院の対応に一寸ミスがあったのではないかという不信感を持ってしまった。 8日、告別式に参列。(第二月曜日にあたるこの日はコーラスがあったが欠席)

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