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2012年5月26日土曜日

Another fresh air in Tokyo

子供達がいるとこうも世の中広がりを見せるものだとつくづくありがたいと改めて思う。今はやりのFB式にどんどん繋がりが広がっていく。3人の子供達全員からそれぞれに枝分かれしていくのだから相当大きな木になっていくことになる。
わたし達がクウエイトに滞在したのが1983年9月~1985年12月だから30年も前になる。真ん中の娘の同期生がイニシャティブをとって今回第1回のクウエイト日本人学校大同窓会なるものが銀座6丁目のダヴィンチビルで実現された。恩師、父兄を含めて総勢103人が集合。連絡の取れなかった人達もかなりいたようだが、これだけ集まったことは大成功。我が家も全員集合。子供達は皆楽しかった!と感無量だった様子。驚いたことにビッグサプライズもあって、在日クウエイト大使夫妻が途中でお見えになり、大歓声。幹事さん達、なかなかの行動派揃いで感心した。娘の伴奏で日本人学校の校歌まで大合唱。子供達(といってもアラフォーの殆どが頼りがいのある家族持ちとなっている。)もなつかしげに思いっきり歌っていた。その日本人学校は実は湾岸戦争の影響で1990年に閉鎖されたという。私達がクウエイトからパリに移って4年後の出来事。子供たちは母校が無くなった淋しさも感じていた。あの当時は日本人会も大盛況の時代で、在留邦人も1700人は居たと記憶する。でもそこでの経験を共有した子供達の繋がりはこれからどんどん大きくなって行くことだろう。今回の立ち上げを企画してくれた厩橋君を始め、準備に奔走し、時間を費やした幹事さん達に感謝します。ありがとうございました。

2012年5月24日木曜日

Fresh air in Tokyo

何回目になるだろう。これまで同期入省の夫達の伴侶が縁で同期夫人の集いを定期的に始めるようになったのはそれぞれ最後の任地を終えて本帰国になってからだと思う。現役の時は、任地で、あるいは婦人会を通してどこかで接点はあったが次第に居住地が遠くなったり、介護など家庭の事情で活動が余り出来ず、頻繁に会えなくなる一方、同じ職業を共有したよしみの繋がりは大切にしたいとの思いがみんなあるのだと思う。年二回ぐらいはどこかに集まって食事をしながらおしゃべりをという企画になってきた。今日はその日で、私も日光から東京は半蔵門のアルゴという所に行って来た。今回は五月という躍動を始める季節のせいか、都合がつかなくて生憎参加出来なかった人が多く、集まったのは私を入れて8人。でもそれなりに友情を確かめあい、年齢相応の話で3時間、かなり充実した時間が持てた。この年齢になると一言発言しては笑がフォローする。そして、いろいろデジタル化したネット社会をいかに歩き抜けるかのハウツー談義が多くなる。それぞれ自分自身のことに話の矛先を向けるだけで他人の誹謗中傷が無いのが爽やかで楽しい。

解散後、M夫人のお誘いに乗って新国立美術館へ。セザンヌ展を鑑賞。あちこちの美術館で彼の作品は見る機会が多々あったが、今回のはかなり大がかりなコレクションとなっていてセザンヌの生涯を通しての作品が集められていた。エックスプロヴァンスのあのMt.Sait Victoire が生涯を通して彼の心を占めていたことがよく解った。雷に打たれながら瀕死の状態で描き続けた山。絵を描きながら死にたいと言っていたとのこと。又、あれだけ風景画と静物画を徹底的に描きながらも、最終的には人物画が絵画の行き着く所と言ったそう。肖像画を沢山描いていることにも驚いた。農夫の肖像画は素晴らしい。働いた証のあの大きな手が印象的。セザンヌは描く対象の質量をいかに表現するかを追求したのに対してマチスは面の色の美しさを追求したと言われているので、マチスがセザンヌの絵を最初に注目したというのは意外だった。確かに追求の過程で色面を意識した作品もあった。ともあれ、久しぶりにゆっくりと素晴らしい美術展を見られたのは幸運であった。

2012年5月19日土曜日

三毛子 (23)

三毛子 (23)

二人がブルネイという東南アジアの一角に二年余り行っていた時、よく一人で耐えたと思う。最初は気が狂いそうだった。でも、食べ物と水はいつもあり、トイレもきれいにしてあったのであとは気持ちの持ち方だと言い聞かせて何とか我慢出来た。そして、一人暮らしに慣れた頃に、二人が帰ってきて又生活のテンポがかわって行った。変化に慣れるのが速い。一人の生活に慣れていたはずなのに、今では又、一人ぼっちにされるのはたまらない。とにかく、家の中ではおかあさんの後をくっついて歩いていた。


でも、ニューヨークに行く前にも一度やったが、今度も又、家に入れなくてさまよったことがあった。それは、おかあさんが買い物から帰って、ドアを開けたまま一杯レジ袋を中に入れている間に起きてしまった。ずっと家の中ばかりにいるわたしにとっては、ドアがしばらく開けっ放しになった時が外の空気を吸う唯一のチャンスとなる。その時がまさに絶好のチャンスだった。わたしは思い切ってレジ袋を飛び越えてアパートの外廊下に出た。外廊下は塀があるので外は全然見えない。上を見ると青い空が広がっていた。廊下を歩いて階段の所まで行くと、最上階なのに、更に半階段ほど上にも階段があった。

猫は上に昇る方が好きである。昇ってみるとそこはビルの屋上になっていて鉄柵があった。鍵がかかっているので人間様は入れない。空調や電気関係の機械が一杯おいてあるので子供が入ると危険な所である。でも猫にとっては鉄柵だってすり抜けられる。わたしはその柵をすり抜けてあたりを用心深くパトロールしてみた。でも草も無いし、面白そうなものは何もなかった。初めてみる世界でかなりショックだったのかもしれない。わたしは鉄柵の近くに戻ってしばらく様子を見ることにした。

その日はそのまま日が暮れてあたりは真っ暗になっていった。どうしてこんなところに来てしまったのか、自分でも次第に気が動転して行った。鉄柵を逆戻りしてすり抜ければ家に帰れる筈なのに、それが出来ない。体が硬直してしまったように。私はそこから離れないでずっとそこに座り続けていた。おかあさんが迎えに来てくれるのを待機していたというのでもない。とにかく放心状態だったというしかない。回りは機械のうなる音だけで、怖くなって身動きできなくなっていった。



2012年5月14日月曜日

教養 第14回日光清風塾塾長講話会 ミャンマー情勢について

5月13日は好天気の母の日となり、不安定な天気が続いた後だけに、より気分も晴れた日となった。三人の子供達より、それぞれの思いを綴ったメッセージが届く。健康であることに感謝してEECCに向かう。続いて同じ場所で行われる14回目となる月例講話会へ。

今回のテーマは「ミャンマー情勢について」
まず、ビルマについてどういうことが頭に浮かぶかという質問に会場から次のことが列挙された。
①ビルマの竪琴②ビルマ戦線、インパール作戦③ノーベル平和賞を受賞しているアウン・サン・スー・チーさん④一日英連邦 など。
これらのテーマを織り込みながらミャンマーの建国の歴史に触れ、塾長自身が12、3年前にビルマを訪れた経験にも言及しながら話は始められた。そして話の真髄へ。

長年軍事政権下で軟禁状態に置かれていたアウン、サン、スーチー女史が軟禁を解かれ、議会の補欠選挙で圧勝したことから、軍事政権下のミャンマーでは民主化運動が表面化し始めている。アジアで最貧の経済状態となっているミャンマーも軍事政権が存続するのは疑問となってきている。広大な国土を有し、水資源にも恵まれたミャンマーは柔和なビルマ人気質とともに大変魅力的な所である。民主化の動きは海外からの投資も招き、経済交流が活発になって国が発展する要素は大きい。日本は再び大規模な円借款の協定を結んだところであり、ミャンマーから450人もの留学生を受け入れるとのことで、日本にとっても活力が生まれる。相互の発展の為に大いに期待されるところであるという話であった。今後の動向が注目される。

2012年5月12日土曜日

三毛子 (22)

三毛子の自叙伝(22)
 でも猫も人間様と同じで、慣れるとそれが当たり前になってしまう。あんなに外の廊下を歩く足音に耳をそばだてていたのに、それも関係なくなっていった。いつも昼間は別としてもおかあさんが側にいると思うと、安心していられる。本来の猫の生活に戻って行った。一番嬉しいのは、夜寝る時は、おかあさんのお布団の上にあがって、横になるのに丁度いい角度というか、くぼみというか、体がすっぽり包み込まれる所が探せることだ。暖かくて気持ちがいい。冬には、おかあさんも「ミーちゃんが暖かい!」なんて言って喜んでくれた。おとうさんの所はわたしに合わせてくれないので居心地が良くない。いつひっくり返されるかわからない。わたしはやっぱり安定している方が良いのでいつもおかあさんの方に行ってしまう。


 一番気になるのはおとうさんとおかあさんが話をする時である。私が忘れられるかもという恐怖心がいつもあった。だから、二人が食事の時などに会話すると、わたしはおかあさんの膝に飛び乗ってニャーニャー泣き叫ぶことにしていた。おとうさんは「ほら、ミーちゃんが嫉妬心を持っている」なんて難しい事をいつも言ってからかっていたが、わたしとしては「わたし、ここにいます!」と宣言し、確認のメッセージを送っていたのである。生きるということは、やはり誰かにその存在を認めて貰うことだろう。七歳ぐらいだった私はまだ甘えん坊で置き去りにされるのは怖かった。



2012年5月8日火曜日

三毛子 (21)

三毛子 (21)

こんな人生が一年続いた。手紙がくるわけでもなく、どんな様子なのかも全然わからないでひたすらマイペースの日々の連続だった。でも、時は誰にコントロールされることもなく、一人で、こつこつと経っていく。わたしはその時の刻みに身をゆだねるだけ。外から聞こえる音に耳をそばだてながらも、何もしない。知らない人が来れば、身を低くして、飛びかかる態勢にかまえるだけ。それだけで毎日はどんどん過ぎて行った。運動不足になった気もする。部屋の中で走り回るチャンスがないままにわたしはメタボになっていった。テレビは置いてあるが、つけることが出来ないので、ニュースをフォローすることもなく、とにかく、寝て食べてだけの生活になっていった。

このころだったと思う。皮膚に湿疹が出来て、体調がかんばしくなくなったことがあった。おねえさんがいち早く気が付いて、わたしをあのニューヨークに行った時に入れられていた籠に入れ、獣医さんの所に連れて行ってくれた。蒸し暑かった時の後遺症かも知れない。何だか原因不明のまま注射された。蚤とも違って、もしかしたら、ストレスからかもなんて言われたらしい。精神力が強いと思っていたが、それもあたっている気がした。毎日一人で耳をそばだてて、足音だけを緊張して聞くことがいかに重圧感をもたらすことか。よくもちこたえたとしか言いようがない。

そして今度こそおとうさんとおかあさんは日本に帰国してしばらくは一緒の生活が出来るようになった。おとうさんは勿論だが、おかあさんも仕事を再開した。前にやっていた仕事に復帰したので、要領はわかっている。おとうさんは都心に行くので、自転車で駅まで行って、あとは電車だった。おかあさんは八王子の方のセンターが仕事の基点だったので、家から車で通った。変化のある生活になって、わたしも寝てばかりはいられなくなった。家の中の物音、電気がついたり、テレビがついたり、洗濯機の音や、台所の音、いろいろ賑やかな音と動きが、今までのわたしのペースを狂わせて行った。

2012年5月6日日曜日

ボランティア 石巻へ支援視察日帰りバスツアー

平成24年5月5日 被災地石巻への支援視察一日バスツアーを企画実行して。

 悪天候に見舞われた今年のゴールデンウイークであったが5月5日は予報通りの好天気に恵まれた。昨年の東日本大震災勃発後、東京から活動拠点を被災地石巻に移して地元民の支援活動に渾身の努力を続けている女性がリードする「ぐるぐる応援団」のことが心から離れず、ネット上で彼等の活動をフォローしている内にその活動の様子を実際にこの目で確かめ、触れたく思うようになったことがこの企画のきっかけであった。
 
往路高速のサービスエーリアで

昨年は楽しい英会話(通称EECC=Enjoyable English Conversation Club)から心ばかりの義援金を送付させていただいたが、現地を訪ねて頑張っておられる方々に寄り添って見たいという思いにかられていたところ、今回、運よくスケジュールの調整が出来、参加者を募った結果、関係者を含めて最終的に22名が集まった。日光清風塾からも塾長を含めて5名、大学生が2名参加。ありがたいことに同塾理事の手塚久男氏がバスを提供して下さったことがこの企画を可能にした。又、同塾の理事でもありEECCのメンバーでもある千野根貞夫氏の溢れんばかりのボランティア精神が発揮されたのには感動。氏の豊かな機知に富んだアイディアのおかげで、往路は4時間、復路は渋滞に巻き込まれて8時間強かかったにもかかわらず長時間の      道中は最高に楽しいものになった。

一か月前に立ち上げたばかりの
「いしのまキッチン」コミュニティー
レストランで
  今回はEECCからのプール金、塾長講話会での義援金の一部、更に今回の企画の為の寄付を全部まとめた義援金と、数枚もの有志の手編みの首巻、子供達へのホームメードのクッキーと日光地元で製造されているチョコレートを直接「ぐるぐる応援団」にお渡しすることが出来た。   

「ぐるぐる応援団」被災者に立ち上がって貰うために試行錯誤でいろいろな活動を続けてきているが、その中に、市庁舎が入っているビルの一階(震災で被害を受けた)を借り、改装して「いしのまキッチン」という先月オープンしたばかりのコミュニティーレストランがある。今回、私達はこのレストランで食事をして実際そこで働いている人達とふれあうというのが一番の目的であった。そしてリーダーの鹿島美織さんのお話を聞くことであった。更に被災したところを視察し、地元のお土産を買って帰りたいということであった。
厨房で奮闘する女性達

朝、日光を6時に出発。目的地には10時半ごろ到着。鹿島さんには11時にレストランに着くように約束していたので、早めの到着に安堵した。ところがバスの駐車場のことを念頭においていなかった為に駐車出来る場所を探すのに2,30分かかってしまった。市庁舎のあるビルだから駐車場は問題ないと思っていたがバスは別である。今後の教訓になったことの一つである。初対面で挨拶もしっかりしないままにまず駐車場のことで鹿島さんを一層気忙しくしてしまったことが悔やまわれた。22名を受け入れる準備で厨房は大忙し。まだ一か月にもならないレストラン運営は慌ただしい筈である。バイキングスタイルで事前に予約していたが、食器の準備も大変だったに違いない。何もかもスタートしたばかりの所であったが、鹿島さん始め、厨房のスタッフは私達のために一生懸命メニューを揃え、手分けして作って下さったことにまず感謝し。衝立で別のコーナーに準備されたテーブルについた。

それぞれ、思い思いの取り方でお皿を一杯にする。朝が早かったのでみんな空腹だったのだろう。無心に食べる。おかわりに立ち上がって行く人、お茶を入れる人、と次第に雰囲気が静から動にかわり、落ち着いた頃に寄付の贈呈タイムに入る。もう一度「ぐるぐる応援団」を紹介して、鹿島さんにお話をいただく。厨房にいた4人の女性に出ていただき、義援金と物資を受け取っていただく。大変喜んで下さった。大変なご苦労をかかえていらっしゃる筈だが、余りそんな様子も出されず、ひたすら感謝して下さる様子がありがたく、来て良かったと感無量になる。昼食時で一般のお客様が入る時なので、ゆっくり私達だけで時間を独占することは憚れた。その為スタッフの方達とのお話は出来なかったが、最後にはしっかり握手をして寄り添っていることを心でお伝え出来たと思っている。涙ぐんで送って下さったことに胸が熱くなった。

食堂は11時から2時までの3時間がオープン時間となっている。ピークを過ぎたところで鹿島さんは私達のバスに同乗して被災地を案内して下さった。懇切丁寧に南浜地区を中心に、被災の大きかったところを1時間以上割いて案内していただき、まさにSeeing is believing.を体験。門脇小学校の悲惨な姿を身近に見た時は言葉が無かった。今の姿を見ただけでは印象は薄かっただろう。鹿島さんの説明を聞いてその壮絶さが眼前に広がり絶句した。夫が言うように、まさに原爆ドームに類似した残骸であり、忘れ去ることの無いよう、この姿は保存して後世に伝えて行くべきだと思った。火災で黒焦げた校舎からまだ焼け焦げた匂いが漂っているような気がした。校庭に山積みされていただろう瓦礫は片づけられていて本来の校庭の様子であるが、校舎内の瓦礫は一年前の状態のままである。平素は人影も無く、本当に無残で淋しい所となっているとのこと。今日は5月5日の子供の日。県外から沢山の人が子供連れで見学に来ていた。校庭の隅には壊れた水の無いプールもあった。
無残な姿の門脇小学校

南浜地区は漁業関係の建物、加工場、倉庫が一杯立ち並んで、石巻の産業を支えていたところだったに違いない。その臭いがあり、半壊、全倒壊した沢山の大きな建造物の残骸の先には一階が貫通してその向こうがシースルーで見える民家も沢山立ち並んでいる。人影は無い。どのように自分たちの家を処分して行くか、手が付けられない状態だという。かつての繁栄していた石巻漁港に人影は無い。屋上に逃げて多くの患者が助かったという石巻市立病院もあった。外見は今でも機能しているように見受けられたが今は閉鎖状態。目途も経っていないようだ。

鹿島さんが強く問題視していることがある。被災者住人の生きる意欲の格差が大きくなってきているということだそうだ。ますます内向的になってふれあいの機会を失って行く人と、とにかく戸外に出て、人にふれあってエネルギーを出していく人との格差である。鹿島さんは内向的になって行く人に手を差しのべ、人とふれあっていって欲しいと願い、コミュニティーバスを走らせ、レストランをふれあう場所にしたいとコミュニティーレストランをオープンした。ふれあって話をし、雇用を作り、生活の原点を作り上げて行って欲しいという思いがとても熱く感じられる。自分たちで立ち上がり、歩み始めるまで、鹿島さんは現地で奮闘し続けていくに違いない。アゲインストの強い風が吹くこともあるだろう。でもフォローの風も小さいのがやがて大きなって一杯吹きつける時が来る筈である。寄り添う心も一つの小さなフォローの風だと思う。大切にしたい。

ありがたい説明のおかげで、私達は現地の具体的な姿を目に焼き付けることが出来た。本当にありがとうございました。

松島にて
 帰路、近いからと松島に寄った。石巻もそうであったが私にとって松島は今回初めて訪れた所である。松島は沢山の島が散在しているために津波の被害は他と比べて小さかったということだが、実際にはかなりの浸水はあったようだ。漁場も特産の牡蠣の養殖はすでに復活しているという話であった。松島の絶景は船で沖に出て初めて見られるとのこと。これはまたの機会に託すことにして、半時間の滞在で午後4時前にバスは出発。予想していた渋滞に直面して日光に戻ったのが深夜。零時を過ぎていた。

いろいろ思いをめぐらしていてもステップアウトしないことには何も始まらない。マスコミからも注目されつつある「ぐるぐる応援団」の活動に思いを馳せ、時の人にいずれなるに違いない鹿島美織さんにお会いしてお話を是非伺いたいとおもっていたことが今回実現出来た。有意義な体験が出来たことに感謝したい。
                                            平成24年5月6日 記  



2012年5月3日木曜日

三毛子 (20)

やれやれ。これで知らない人が来ても、緊張してかまえることも要らない。もっとも毎日のように、二人とも忙しく外出していたので昼間はあの一人で留守番した時とあまりかわらなかったが、夜は一緒だったので、精神的に大違いだった。健康チェックと言っていたが、わたしのチェックは無用らしい。どんなにさびしくても、わたしの精神力は相当強い。食欲に影響するほど憂鬱になることもないので、元気でいられるのだろう。人に影響されない、マイペースが元気のもとなのだろう。

でも今回の一時帰国はありがたかった。短い間でも、そばにいて甘えられるのが本当に幸せだった。おねえさんたちもわたしのことに結構束縛されていたので一息つけたに違いない。息抜きが次の試練に備えていかに大事かということもわかった。二週間ぐらいしておとうさんとおかあさんは又暑い国、ブルネイに向かった。今度はいつになるのだろう。ドアが開いてれば、わたしも一寸旅に出ても良い心境になることもあった。家に閉じ込められたままでは冒険も出来ない。観念して、ひたすら寝る猫人生に徹するしかない。おねえさんやおにいさんがまたローテーションを組んで週末に来てくれると現実に戻り、恐ろしい腹の底から出る様な太い声で「ニャーオ、ニャーオ!」と泣き叫んだ。「可哀想に!」と同情されるとよけい泣きたくなる。

家族 GWは超多忙 My family's busy schedule during GW

At the time when 'Bond'(絆)has been the Kanji of the year, it has been more meaningufl even for our family and it will be more strengthen in the future to come.

Just one day before the start of this year's GW, a very sad news came in to our family. Our second daughter, Yasuko, her mother-in law passed away after such a long struggle with her cerebral infarction for three years in hospital. She was a great mother with her persistent nature in everything with such a deep love to everybody. She used to work as hard as possible to make her family more happy. Her grandson, Kosui, 5 years old now, was only 2 years old when she was hospitalized. He, however, seems to remember his grandmother, especially her kind care and good food she made. He wrote a thank you letter to her and placed it by her at the last momet, which moved our hearts a lot. Her funeral-eve and a funeral service were conducted on April 30 and May 1.
  
With Shota's family with the view
of Mt.Shirane far back behind
Our GW started with the visit of Tomoko's family on the 28th of April. They also had a busy schedule in order to make their long holidays useful with their son, Shota(5 years old). Although we already received a sad news from Yasuko, we spent the first few days at our place with Shota and his parents. We went to the deep Nikko, Sangetsu Yama, to see the fresh green and a marveouls view of mountains which turned to be wonderful thanks to such a gorgeous weather.


Then on the last day of April, we all went to Motoyawata by our son-in law's car to visit Yasuko's family. We shared the deep sorrow and encouraged each other. We attended the funeral-eve and joined a dinner prepared for the guests. All our family gathered at one table, Tomoko and Michio, Yasuko(Makoto was busy with his friends at another table and Masanari whose wife just delivered their first baby a month ago, therefore she wasn't available today. The little boys,our grandsons, were not in this photo. They were playing around at that time.
  The next day was followed by a funeral service. Masao was with Yasuko's family until the body was cremated while I went back to Nikko for a preparation work for one day bus trip to Ishinomaki to support "Guruguru Ohendan" and to see the disastrous seashore site hit by the Great earthquake last year.

We had rain all day long the next day. But we needed excersise and we played golf in the rain. Actually we were through to No.18 hole.

Then, the next day on the May 3rd was for another congratulatory event. It was Masanari's first baby girl's pray in front of the Gods in the local shrine. We had another big rain all day long, therefore we had to hop by taxi. We prayed to the gods so that she would be protected to grow in good health and in many happiness.After the shrine, we moved to a Japanese style restaurant to share a pretty big lunch to congratulate Yoka, their first baby girl and our first grandgirl. All were happy about her birth. In spite of the bad weather it turned to be successful and meaningful congraturatory event. Yoka, thank you for your birth.

 Finally on May 5th, we made one day bus trip to Ishinomaki, one of the heavily attacked by the Great Earthquake last year, to support 'Guruguru Oendan' and to see the site, the disastrous area by the seashore. More derailed description is found in another title in this blog but in Japanese version.