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2016年5月29日日曜日

秘境チベットへの旅《2016年5月6日(金)~5月12日(木)》

秘境チベットへの旅《201656日(金)~512日(木)》

56日(金)
 大学宿舎を5時に出発。事前にタクシー予約をしてくれた李琪さんとショウインが飛行場まで同行。老夫婦先生の秘境チベットへの旅の挑戦が心配だからと。
西寧へのフライトは定刻(7 :15)に出発。朝食として出た中国版おにぎり、米(?)の美味しかったこと。フライトは快適。途中蘭州にストップして西寧に11 :30到着。機内で起きた特別なことを記しておこう。
 私達の座席の隣にはチベット仏教徒が座っておられた。今回のチベット旅行を企画した夫の目的は、勿論、秘境を見るというのもあったが、それ以上に、インド仏教を殆どそのまま受けついているとされるチベット仏教がどんなものか、日本の仏教との相違点を少しでも、生に理解したいということであった。隣に、まさしく、チベットのお坊さんを得て、夫は、中国語で話しかけた。この旅に出かける前から、本を読み、ネットでも般若心経の読経を録音したりして調べていたので、持参していたテキストを見せながら、質問し始めた。このお坊さんは西寧に在住の由だったが、最後には、般若心経の最後の部分を読んで貰って数秒間、録音もした。凄いエネルギーを使ったに違いないこの出会いが、これからの旅への更なる好奇心に拍車をかけることになった。夫にとって大変ラッキーな旅の始まりとなった。
飛行場からはエアーポートバスで豪龙宾館(Hao long Hotel)へ。快適なホテルで一安心。早速街中を探索。東関清真寺というモスクを探す。
 さすがにイスラム教徒の姿が目立ち、ここは中国?という光景。しかし、聞こえてくるのは中国語。男性は白いキャップを被り、女性はトゥドンを纏いながらも、若い女性の服装は現代女性のファッションが目立った。頭隠して何とやらと言うのははしたないが、下は黒いスパッツ、タイツ姿の、キャンパスで見るあのファッションである。
モスクの周りには数珠を手にした信徒が三々五々固まって談笑したり、通りのベンチに座って大声でおしゃべりしている。大変平和なムードである一方、かよわい声で手を差し伸べてくる人々もいる。南京では見られない光景であった。 
中に入って見ると、中庭は広大でお祈りするホールがどれなのか見分けがつかない建物であったが、目についたのが教室であった。ドアが開いていたので、そっと覗いてみると、老師が教壇にいて、生徒は長老の男性ばかり。大きな声で、無心にコーランを読んでいるのである。アラビア語のコーランを開いて、教会でバイブルを読むように、一斉に朗読している。信じることのエネルギーを感じる。一方、若い信者が外から覗いている様子にも何か、心うたれるものがある。
 西寧の街はチベット自治区の東隣り、青海省の省都。高層ビルが聳え、中国の銀行の数がこれほどあるのかと思うほど、立派なビルが軒を連ねています。高層ビルの建設も続き、全体が繁華街で店の多いこと。南京の新街口に負けないほどモダンで立派な地下街が十字に伸び、ショッピング客で大変賑わっている。地下鉄はまだ無いので、その分、市内バス(どこに行くにも1元)、郊外行きバス(3元)が走りまくっている。早速、明日は郊外にあるチベット仏教のお寺、塔弥寺(タース)に行って見ることに。

5月7日(土)

塔弥寺のある町まで片道1.5時間はかかった。郊外を西に走った。中心地の立派な道路を抜けると舗装されていない道もまだあるものの、かなりの速さでバスは走った。バスからの光景は青い空、緑の山並みを見てさほど変わったものではないが、バスの乗客の中には、鳩を入れた籠を持って乗って来る人もいた。ただ、どこへ行っても携帯の世界となっている。バスの中でも、大声で携帯と話している人、i-phoneをじっと見ている人の光景は当たり前のこと。今回の旅行で中国がここまでネット社会化されているのには大変驚いた。お坊さんもネット社会にあり、拉薩のお寺では携帯を見ながらお経を唱えている光景を目撃した。携帯は万能である。写真家は別として、一般人は写真撮り、道探し、店探し、何でも携帯で出来る。自撮り携帯も流行っている。
 町のバス停から塔弥寺までの参道にはどこでも見られるような仏具店、お土産の店が並ぶ一方、土地の女性が次から次とお土産品を抱えて近づいてくる。これから行くチベットへの前哨戦を感じました。門前町の空気が漂い、あのチョコレート色の衣を纏ったお坊さんにも行き交う。
 寺の門を潜り抜けると広大なスペースが目の前に広がる。車も沢山駐車してある。観光客もかなり多い。外国人というより、いろいろな民族衣装を見ると、国内の観光客が相当に多い。開放的なお寺でいろいろな仏閣が連なり、山全体がチベット仏教の聖地となっている。階段有り、坂道あり、一つの町を歩く感じがする。修行僧のみならず、信者達の五体投地の姿を実際に見たのは初めてで、衝撃的でした。両手に下駄のようなものを履かせて、しゃくとり虫のような進み方をしながら仏を拝み大地を進む、巡礼の姿である。チベット仏教最高峰の巡礼では、450km3か月かけて進む。1日5km2000回の投地だという。これには付添人が食料を持って同行するのだそうだ。
    チベット仏教への手がかりを得ようと夫はここでも僧侶を見かけると話しかけていた。内モンゴールから来たという女性がその様子を見て、片言の日本語で話しかけてきたりもした。そして、かなり山頂の仏閣に辿り着いた時、中から出てきた三人の男性に遭ったのがきっかけで、僧侶と中に入ってしばらく問答をしてきた。やはり、コミュニケーションがスムースに行かなかったようだが、立派なサンスクリット語と中お国語の本を貰ってきた。この本が後で行くチベットで役に立つことになろうとは。夫のこのエネルギーの消耗振りは驚くほどである。相当に疲れると思う。しかし、本人は苦労が面白いという。問題を抱えてその解明にエネルギーを費やす。そこで少しの明かりが見えてきた時の感動がたまらないのかも知れない。
チベット仏教の仏閣建物は美しいと思った。チョコレート色と白のコントラストが特徴である。更に、五つのエレメン
トを意味する五色の旗、赤、青、緑、黄色、白の鮮やかな色の上りや旗が小学校の時の運動会を思い出させる。ストゥーパの高い所からなだらかに、巻き付けるようにして飾られているのもある。飾り方はいろいろあるようだ。山全体が何かお祭りかイベントで賑わっている雰囲気である。

58日(日)
午前中はもう一度繁華街莫家に出て十字路地下街を抜け、市の中心と思われる交差点で改めて四方八方を見渡して見る。ありとあらゆる銀行の立派なビルが迫りくるよう
に聳え、高級デパート、超尚市が人々を吸い込んでいる。豊かな人達がいる一方で路上には置いてきぼりにされている悲しい人達の姿もある。
しかし、西寧は発展のエネルギーを感じさせる街である。お昼を簡単に食べて、ホテルに預けた荷物をピックアップ。いよいよ天空鉄道初乗りに鉄道駅に向かう。
西寧の鉄道駅はホテルから近い。市バス一駅で着いたが、バス停から駅舎までが結構歩くはめになった。駅は巨大であった。外国人は殆ど見かけない。チベットと中国本土を行き来する手段としてこの鉄道を使っているのだろう。2006年に開通してからもう10年経っているが、駅は巨大でモダンで清潔そうに見える。駅舎に入るのに厳重な検閲があり、パスポートのみならず、チベットに入る許可証が必要である。半月前に申請してぎりぎり間に合った許可証である。係官は結構頭が高い印象を受けたが、入れという合図を貰った時は、ホットした。これからが本番である。ゲートがいくつもあり、常にアナウンスが流れている。中国語のみならず英語でのアナウンスもあるが、場所名など簡単には聞き取れない。夫もいろいろな人に尋ねて確認し、車中で必要となる水と食料の確保をして、ゲートを通り抜けた。いよいよ秘境への旅の本番の始まりである。
鉄道は定刻15 :02に出発。1日に5回走っているということだが、中国で一番大きいと言われる青海湖を見たくてこの時間の列車を選んだ。今となればやはり、一番標高の高い(5078m)唐古拉(タンクラ)周辺からの眺めをみるべきだったかも知れない。唐古拉に日の出あたりに通過するには西寧を夜出る汽車が良い。いずれにしても、どの列車も満員状態で、良い座席が取れず、いわゆるエコノミークラスの座席で3段ベッドの上と下がやっと取れたわけで、私たちはまさに青い青海湖(チンハイフー)を眺めることになった。大きいだけあって、最初の2時間ぐらいは行けども行けども青い湖が窓の外に広がっていた。そして、ト
ンネルの多いこと。やがて17時頃(西寧から120km)になると湖は西端に。その後は羊のいる牧場が続く。群れは断続的に延々と続き、ヤクという牛を大きくしたような家畜も目に入ってきた。ノルウェ-、アイスランドで見た羊の放牧風景とは異なって、草原は黄土色であり、遠くの山並みはまさに平山郁夫画伯の描くあの風景と重なる。
 西寧から3時間で、いよいよ山に向かって行く。列車が登っていくのが体でわかる。広軌道の列車は揺れが無く、技術的にもかなりレベルが高いと感心させられる。22時間も高い標高を走り切るのだから、鉄道施行のその技術には大変なものがある。更に、舗装された道も窓から見える。
送電線が蜘蛛の巣のように続き、インフラがこんな高い大地にも設置されているのに驚いてしまう。それより、こんな標高の高い所に人が住んでいること自体が驚きである。
 1850 2800mぐらいの高さにある最初の停車駅に止まった。冷気を肌で感じたくてデッキまで出てみた。確かに酸素も少なそうで、冷蔵庫を覗くような感じであった。と、突然、鼻がゆるくなってあわてて鼻紙を取りに席に戻って鼻を咬んだところ、それは鼻血だった。驚いた。中学生の時以来で一瞬たじろいでしまった。安静にという夫のアドバイスをいいことに下段ベッドでしばらく寝ることにした。
 やがて21 :05、機関車のチェンジのため、列車はストッ
プ。途中で機関車をその高度でも走れるものに取り換える所である。格弥木(ガモ)の町はネオンが暗闇に美しく輝いていた。かなり大きな町なのだろう。高層ビルもあり、建築中のもある。ここで取り換える機関車はアメリカ製のものだそうだが、その高い技術で作った機関車を動かしているのは中国人である。信頼感のある鉄道に、体も徐々に順応していく。目が覚めたり、まどろんだりしているうちに、時間は過ぎていった。
 その頃であったろうか。上段で寝ていた夫がスパイダーマンのように上段ベッドから這いつくばるように降りて来た。頭が痛い、喉が渇く、と力を落として呟いた。大急ぎで水を
補給。高山病の兆候である。気圧の変化でかなり血圧が上がったようだ。それこそ安静にするべく、下段のベッドで横になって貰った。それは計算すると、5082m地点を走っている時に影響を受けたのだろう。   22 :27分に列車はスタートしたが、外は真っ暗なので、寝るしかない。横になりながら夜明けを待った。

59日(月)
630頃になると、曙の美しい暖色が遠くにあった。700停車駅、安多(アンドウ)に到着したころ、77歳の男性に声をかけられる。彼は、殆ど夜通し大声でおしゃべりをしてい
た元気のいいお爺ちゃんだった。私達が70を過ぎた夫婦であることを知って声をかけてきたのだが、この男性こそ高山病など関係無いといわんばかりの元気さで圧倒されるほどであった。大声で常に話が出来るというのが元気の秘訣なのだろう。
 車内に流れる音楽にふと耳を澄ませると、あの甘い美しい声のテレサテンの「つぐない」が流れていた。彼女は、大学の学生達も知っていて、カラオケなどにも登場しているほど人気のある歌手の一人である。朝焼けに輝くチベット高原は穏やかで平和そのもの。ヤクの群れが続き、同時に集落が断続的に続く。一面が黄土色で、住居の周り、あるいは屋根の上に飾ってあるあのチベットを象徴する五色の旗も長年の風化で一寸鮮やかさを失って見える。830、最後の停車場、那由に到着。標高4507m。ここから徐々に高度が下がり、標高3600mの拉薩へと列車は元気よく走って行く。
 ついに拉薩に1230到着。西寧から拉薩までの距離は北海道から九州までの距離とほぼ同じで22002300kmはあるとのこと。それを21.5時間かけて走ったことになる。しっかり含蓄に作られた列車が、見事な運転技術のおかげで拉薩駅に到着した時は、思わず感動の涙が。ついに来たっ!という思い。プラットフォームに降りた時の感動である。しかし、確かに空気は薄いのがすぐわかるほど、呼吸がいつもと違う。
 出口では厳重な検査が行われ、外国人は又別の建物に行くように案内された。そこで再び許可証とパスポートを提出。これが終わるといよいよ拉薩の地に足を踏み入れることになる。そこで一人の日本人男性と出会った。彼は元鉄道マンだったとのことで、今回は中国の中で鉄道を乗りながらの一人旅なのだそう。予定にはなかった天空鉄道を乗るのに、やはり、許可書の発行待ちで2週間かかったとのこと。ビザの関係で明日には上海まで、又、鉄道に乗って帰るのだそう。40時間弱かかる由。退職後に、大きな荷物を背負っての一人旅をこうして果敢に挑む姿に拍手したくなった。
私達もそうだが、拉薩に入るには、必ず旅行会社と契約する必要がある。ガイド付きを強要される。従って宿泊場所も旅行会社を通じて予約することになる。拉薩の駅に着くと、単独で行動することは出来ないということであるが、それは、未知の者にとっては迷うこともなく安全であり、手間がかからない。駅まで、ガイドが迎えに来て、一緒にバスに乗ってホテルまで届けてくれる。ホテルは別だったので、そこでこの勇敢な日本人男性とは別れた。お互い、無事で実りある観光が出来ますようにと祈って。
 拉薩は快晴。真っ青な空に真っ白な雲が私たちを迎えてくれた。空気は薄いが、呼吸にはさほど影響は無い。広々とした拉薩駅の風格は非常に魅力的。ポタラ宮を真似たとも言われているが威厳のある、素敵なデザインである。
 異なる国々からの観光客をまとめて、私達は空港バスに乗せられ、ホテルに向かった。
 高山鉄道に乗ってやはり熟睡は出来ないので頭がいくらか朦朧としている。車内のベッドの作りは、三段ベッドが向き合う形でオープンに作られ、ドアは無い。最初は上段にどうやって上るのか不可解だった。やがて、それは一か所づつコンパクトに踏み台がポールに設置されていることが判明。スパイダーマンのように上り降りすることがわかった。男女関係無しの作りになっている。面白そうだったが、結構危険でもある。夫が上段で休んだが、既に書いたように、気分が悪くなった時、降りるのが大変だったようだ。
 標高2250mの西寧から2800mの格弥木、更に登って崑崙山脈あたりで5082mにまで列車は到達。分水嶺を過ぎて標高は少しづつ下がり、那曲で4507m、最後の拉薩で3658m。途中には人間生活が営まれている集落が断続的にあった。
バスに乗ると、ガイドが全員に白いショールをギフトとして提供してくれた。ピュアーなハートで私達を迎え入れるチベット人のマナーなのだそう。大きく長いショールで、首に二重に巻き付けたままホテルまで行くことになる。バスの中ではチベット仏教の祈りが最初から最後まで流れていた。市内の人口は6万と聞いて意外に少ないと思った。大勢の人が街を歩いている。観光客も多い。もっとも拉薩の産業は観光が断トツなのである。一時間ぐらいでホテルに到着。西蔵剛堅拉薩飯店(Lhasa –Cyan Hotel, Tibet
拉薩には旅行会社が沢山ある。ガイドは中国語と英語だ
けとのことで、私達は英語のグループに当初から予約。ガイドも相当いるようで、鉄道駅、飛行場への送迎と市内観光を手分けして担当しているようであった。到着した日はフリーだったので、ホテルでのチェックインを済ませ、WiFiを確認し、WeChatで早速夫はメッセージを発信。それも中国語で頑張っている。私の携帯は何故かWiFiが使えない状態で、ひたすらメモを取るだけに。そして、一段落して、空気が薄い中、少々朦朧としながらも街へ出てみた。
拉薩でも市内バスは一律1元であり、バス停も西寧と同じように、広告版が張られた屋根つきであってすぐわかる。異なるのは、観光客が目立つことと、タクシーに交って人力車のような三輪車の乗り物、インドネシアではベチャと言っていたが、その数の多いこと。後で判明したが、タクシーより値段が高い。タクシーと違って、一台につきいくらではなく、一人につきいくらというようになっている。タクシーなら一台10元でも、この乗り物では一人1020元請求される。更に、強い紫外線のせいか、独特の肌色と法衣のような洋服を纏ったチベット人女性が目に付く。観光客は紫外線除けの帽子やサングラスが目立つ。そして食料品店が軒並みに続く。
大通りから一歩中に入っていくと、独特の臭いのするマーケットがあり、野菜各種、肉類、ヤクからとったミルクで製造したバター(クリーム色の大きなハムの塊のようにしてあって、それを切り落として売っている)、民族衣装、ハンディクラフト、お土産品などなど、何もかもが一緒にオープンマーケットの佇まいで売られている。人々で混雑する中に、貧しい人達、体の悪い人などが手を差し伸べて何か呟きながらそろそろ歩いている。見ていると、市場に買い物に来る普通の人達が、彼らに施しを与えている。輪廻の思想が徹底しているチベット仏教では、現世より来世を大切にしている。現世はむしろ仮の世であるので、お金持ちである必要はない。来世のために、善行をする。貧しい人には施しを与えるということなのだろうか。
再び大通りに出ると、何やら大きな声で歌のような、掛け声のような集団の声が聞こえてきた。その声はあるビルの屋上からであった。民謡のような歌を歌い、掛け合っている。ビル建設工事現場なのだそう。紫外線が強くてエネルギー消耗により息絶え絶えになる状況で、こうして、掛け声のような歌うことにより、力を出しているのかもしれない。確かに、屋上で輪を作り、ゆるやかに、少しずつ動いて回っている風である。コンクリートでもかためているのだろうか。
夕食が食べれる所を探し回って、結局、市場の端にあったチーファンに入り、チベット料理と言っても、一般的中国料理で辛いものは避けるべく、「不辛~!」と忠告して質素なものを食べるに終わった。夜は8時頃まで明るい。明日からの集団での観光歩きに備えて無理をせず、しかし、街並みや地元の人達を側で見ながら、歩くこと小一時間かかってホテルに帰った。写真上はホテルからの眺め。下は、ホテルに留めてあった車。バックウインドウの地図に注目。
 ホテルは清潔で部屋の様子もスタッフも普通のホテルと変わらない。異なるのはロビーのインテリアとロビー横にクリニックがあってドクターが一日中スタンバイしていることであった。土地柄、高山病で体調を悪くする観光客のためのサービスである。現に夫はすぐ天空鉄道での体験を訴えて診て貰った。案の定、血圧がかなり上がっていて、持参している血圧の薬があるにもかかわらず、新たに薬を買ってきた。とにかく、余り動かないよう、安静にして、明日からのガイド付きお寺見学に備えるべく、おとなしくすることに。しかし、今回は、中国語で毎日の体験をWeChatで猛発信していた。これは西寧から始まっていたことである。ホテルのWiFiが弱くてかなり、フラストもあったよう。私のi-phoneはランクが低くて、殆どネットが使えなかったので、今までのようにメモをとるだけに。明日は、空気の薄い中、紫外線の強い中での行動となるが楽しみである。

510日(火)
9時:ホテル前に同じガイド、Diao You(何故かダシーと呼ぶことに)に引率されてこれから二つのお寺を巡るために、いろいろな国から観光に来た仲間総勢11人が集合。ポーランドからの60代の夫婦、カナダ、イギリス、ドイツなど欧米からの人達だった。(2日目は誰かが抜けて、新しく、マレーシアから中年の女性2人、インドネシアから若い女性2人が参加。)結果的に手順が悪いのか、940分スタート。
バスの中ではBM的にチベット仏教の祈りが流れている。ガイドがメインロードを進む中で、拉薩のアウトラインを説明する。
聖地拉薩は神聖な世界から現世に入る入り口であり、拉薩は不死身の者が住むまさに聖地である。チベット仏教はこの聖地で誕生した。ここには高質の仏像や古い伝統があつ。人口は5~6万で、チベット民族(89.7%)を始めとする31もの多民族が住んでいる。一年中、太陽が輝き、きれいな空気のある拉薩は別名「太陽の街」と言われる。大変神秘的で、標高数千メートルに地平線がある所である。
拉薩はSongzain Gambo王が創設した場所。唐帝国からお妃を迎え、彼女の為に造ったのがあの赤い丘に聳えるポタラ宮である。これがそれ以来拉薩のシンボルとなっている。このポタラ宮へは翌日時間を取って参拝するとのことで、今日は最大の寺、Drepung MonasteryGandang Monasteryを見学。Drepungはチベット仏教の四つの宗派の内の現在最大の力を持つYellow Sectの最大寺の一つで、山の中腹に険しく広がり、1416年にZonggabaの弟子によって建立されたもの。17世紀までこの場所が宮殿となっていたが、17世紀にダライラマ5世が今のポタラ宮に移転したそ
うである。元来チベット王国は33代目の王がダライラマ1世となり、現在ダライラマ14世は1959年以来インドに亡命している。ダライラマ1世がサンスクリット語からチベット語を造った人物である。
 チベット仏教はインド仏教を直接受け継いだとされ、ストラ(哲学)、タンダラ(瞑想)の二つを理念としたハイレベルの仏教だと言われる。Monasteryとは経典を学ぶ場所であり、Templeは人々が拝みに行く所である。この広大な傾斜した敷地に数えきれないほどの階段が張り巡らされ、黄金の屋根、多くの経文の旗が風にたなびき、ラマ僧が行き交う。余りに多くの仏閣が迷路で繋がっている印象だった。内部には大小の沢山の仏像があちらこちらに置かれ、豪華に貴石で飾られている。その仏像達にはありとあらゆる紙幣が寄進されて貼り付けられているような状態であった。歩くだけで相当エネルギーを使う。
ここではおとなしそうな犬があちこちで目に付く。餌を探し回るわけでもなく、ゆったりと、石の地面に寝そべっている。ガイドによると、人々が外から連れてきて、ここに置いて行くのだそうだ。ここでは、安全で、餌も十分与えられるのだろう。そういえば、このお寺に限らず、街中でも、青空マーケットで賑わう裏通りなど、犬や猫がわんさといる。追い払うものは誰一人いない。やはり、輪廻の思想を持つ仏教思想と関係があるのだろう。
午後は別の寺に行って修道僧のディーベイト風景を見学。禅問答のようだが、先輩の僧侶が質問を投げかけては後輩の僧侶の返答に「目を覚ませ!」と言わんばかりに両手を強く叩いて迫る様子は迫力がある。お寺の敷地の中庭のような所で50組ぐらいが一斉に修行している様は独特の印象を与えた。観光客がぐるりと取り巻く形で、興味深々の様子であった。チベット仏教徒は一生独身を通す。この若い衆の僧侶達の集団修行風景は汗臭ささえ感じるほど、エネルギーが漲っていた。ダライラマがインドに亡命した時、多くの弟子たちも亡命したので、今拉薩には、300名ぐらいが残っていると言われている。
敷地が広いこともあり、観光客が多いこともあり、ガイドを見失わないようにくっついて歩くのはかなり重労働であった。目に入る仏、経典の多さは驚くほどである。ガイドの説明を聞いているだけではわからないことが多く、時々質問もするが、何せ、人が多くて一寸でも立ち止まると後であわてることになる。チベット仏教文化に触れるのが目的の夫は、可能性のある人を見付けると近づいて話しかける。大概は満足が得られなかったようだが、それでも諦めずに攻めていく。あるお寺のスタッフは、サンスクリット語で書いてある仏教本をくれた。読める筈も無いが、何かの役に立つかもしれない。あるいは記念となる。・・これが後で役に立つことになるのである。
空気が薄く、日差しが強い中での観光は相当体力が消耗する。ペットボトルをかかえての団体行動はガイドの力量が試される。皆の体力を気遣いながら、やるべき説明はしながら、グループを束ねての移動はなかなか出来るものではない。慣れているとはいえ、若いとはいえ、外国からのお客を相手のガイドの仕事は難しい仕事であるに違いない。体力があり、英語が出来、観光内容を理解していつでも説明出来るというのはハイクラスの仕事であろう。ついて歩くだけでも息を切らすほどの地理的条件にあって、一日目はかなり疲れた。4時頃解散して、ホテルの部屋で一呼吸ついた後、夕食を求めて又、地元の青空市場あたりを散策してシータンを見つける。午後の8時はまだ外は明るい。(注:写真に設定されている時刻は日本時間のまま。現地はⅠ時間ほど、日本より遅い。それにしても、広大な中国の中で、どこでも標準時間が同じというのが解せない。実際には、東と西ではかなり時差がある。)

5月11日(水)
午前中は御釈迦様が8歳の時と12歳の時の仏像(Sakyamuni)が安置されている大昭寺へ。拉薩で一番古いお寺である。ここには7世紀の王様Songzain Ganmboの祈願で中国の唐大帝国から王妃を迎えた際、王妃がこれらの釈迦像をお土産に持参したのだという。このお寺は2008年のチベット自治国が独立を叫んでデモが行われた所である。ここで焼身自殺をした者もいた。そのため、この界隈はかなり神経をとがらせている人がいるので観光客は自重して欲しいという忠告を受けた。
 この日は水曜日で、ダライラマ14世の誕生日(1934年)が水曜日だったことから彼への尊敬心を示すために大変な人出
となっていた。毎週水曜日のお馴染みの一種のお祭りなのだそう。100,000回の祈りをやるのだそうでこのお寺の周辺を時計回りに祈りながら回る人、お寺の前の広場で込み合いながら五体投地の祈り方で何回も地面に頭をこすりつける人達でごったがえしていた。ダライラマ14世は7歳にしてチベット仏教の理論を学び、12歳にして20歳ぐらいの深い知識と知恵が備わり、体格も1.5フィートありプロの学者並みであったそうである。16人の僧侶を持つYellow Sectに加わり、Future Buddha,未来のお釈迦さまとなる。
 お寺の中には数えきれないほどの経典がびっしり保存されている。38代の王様の時にインド仏教典から600年かかってチベット語に翻訳されたのだそうだ。開いたことのない経典は絹の袋に今でいうファイルに収められて、ガラス戸の中にならべられているので袋は外から見える。初代ダライラマからダライラマ14世に至るまでには暗黒の時代もあり、10~11世紀はBlack Magic Dark Peirodとされている。しかし、それが悔いるという大切な精神修行を導き、今では祈りのマナーとして、MindOralHeartを三つの重視すべき点としている。
 12歳のお釈迦さまの仏像をかすかに見える距離から拝んだ後、ついにこのお寺で夫の念願がかなってチベット仏教徒に接触する機会を得たのである。ガイドの声かけのおかげで中国語が話せる僧侶と出会え、夫は一挙に怒涛の如く体当たりで話しかけていった。ガイドさんは時間の関係もあり、団体客を連れて先へ進む。私は、ガイドの行き先を確かめて夫の所に引き返し、時計とにらめっこしながら成り行きを待った。他の仲間に迷惑をかけないように、でも、夫の初志が貫徹出来ることを、それこそ、お釈迦様に祈る思いであった。
 15分は経ったと思う。夫は、興奮した面持ちで戻ってきた。ホッ!何とかコミュニケーションは取れた様子だった。良かった!これでチベットまで来た甲斐があったというもの。その後、一行に無事合流し、ガイドにはVサインを送って次へと流れて行った。私には内容はわからない。先に貰った教本に出ていた般若心経をチベット語で読んで貰ったのではないかと思う。
 そして午後はいよいよポタラ宮へ。
 観光客が予想以上に多い。ガイドが入場の予約を取り付けるのがなかなか難しいとのこと。予約時間には絶対に遅れてはならないので時間厳守で集合するようにと何度も言っていたのが頷ける。
 入り口には整列するように手すりが置かれている。その入り口あたりに設置された大きな石にはユネスコ世界文化遺産の文字が刻まれていた。でも余り目立たない。それほど、170mも高さのあるポタラ宮の建物が威風堂々と天空に聳え立っていた。検問が厳しく、二度も関所がある。ガイドの説明を聞きながら最高楼まで幅の広い石段を上る。かなりハードで息をハーハーつきながら、ゆっくり上る。夫は拉薩入りして以来、高山病の気があって、慎重であり、苦しそうであった。私も苦しかったが、まだ、軽症で、夫のお尻を後押ししながら何とか上まで辿り着いた。他の観光客もかなり苦しそうであった。
 しかし、上った甲斐はある。建物の凄さである。17世紀、第5代ダライラマの時に宮殿は拡大されて今の大きさになった。そして、政治活動をする部分と宗教活動をする部分の二つの区画が出来た。チョコレート色の部分が宗教活動、白い部分が政治活動の場所となった。113.7mの高さで住居部分を入れて13階あり、寺、墓、僧侶の宿舎など全部ある。7世紀のSongzain Gambo ダライラマ1世がこの宮殿の創設者である。6世はダメながら、7世、8世、9世は立派に続き、今の14世は1959Yellow Sectのトップとしてインドに亡命し、インドで指導を続けている。7世、8世、9世のお墓が室内に置かれているが、貴石、宝石、金をふんだんに使った巨大なもので圧巻である。教本やチベット芸術文化が沢山保存されている。12時に入場して息を切らして上り、ほんの数か所だけが公開された部分をガイドに案内され、休み休み降りて出口にたどりついたのが4時頃であった。
 二度と来ることは無いと思うと、離れがたく、何か愛おしい所に思えた。そう思った人はグループの中に他にも居て、解散後、それぞれ夕食を終えてから、ポタラのライトアップされた幻想的風景を見るため、市バスでもう一度ポタラ宮まで出かけた。インドネシアとマレイシアからの女性だけのグループで拉薩の夜の風景を楽しむことが出来た。帰路、バスが無くなって、タクシーに乗るかベチャのような人力三輪車に乗るか迷ったが、新しい経験をということになって三輪車に乗った。結果的にはタクシーの3倍は高い料金であった。
 ポタラ宮の前には広々とした広場があり、そこには毛沢東、胡錦濤、習近平の三人の写真が入ったポスターが晴れやかに掲げられていた。噴水が夜空に舞い、大きな道路を挟んだ向かい側の丘には白亜とチョコレート色のポタラ宮が闇の中で豪華に、どっしりと輝いていたのが印象的だった。

512日(木)
南京へのフライトは昼過ぎだったので、午前中の時間を利用して、ホテルから遠くない市場へ出かけた。そして、最後の時間を有意義に使って、お土産を入手。何もかも色鮮やかで、五色の旗がすべて基本になっていることに納得。こうして眺めると、派手と思った色も、美しく感じられた。
 これでチベットとお別れして、これから南京に向かうこと自体、何だか故郷に帰るような気分にもなる。そのくらい、同じ中国の領土と言いながらも文化の違いは大きい。思い切ってチベットへの旅を実現し、異文化に触れることが出来たこと、標高の高い地形に信じられないほどの凄さとインパクトを与えるポタラ宮が7世紀に建てられていること、一方で銀行(中国の農業銀行が進出)や、携帯の店が代表する現代的ビルがあり、街は賑やかで携帯も使っている現代社会であることがわかった。夫の念願であったチベット行きに、最初は消極的であった私が、今までもそうであったように、実現した後は、いつも感謝の気持ちが湧く。新しい体験をして違う世界を見ることが出来たことに感慨も一入である。   謝謝
 


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