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2022年10月9日日曜日

救急救命ドクターによるセミナー

 「重症コロナを語る」by 小倉崇以 救急救命センター長(39

       at 宇都宮総合文化会館 会議室1(3F

          on October 8th 2022

  つい2日前には奥日光の歴史に基づいた「いのちのゆくえ」というシナリオ原作を読んで感動したばかりであるが、今回は貴重な講演というより講演者から大きな感動をいただいた。

  現場の生死をさまようコロナ患者をケアする医療チームの奮闘はまさに緊迫感に溢れ、メディアでは報道されない部分も見ることが出来た。家族との接触を絶たれて逝くという悲惨な状況をもたらすコロナウイルスの恐ろしさを画像から再認識した。

 今日のセミナーはこれだけではない。講演者の生き様である。コロナに立ち向かう様子には悲壮感より、迷いのない判断と常に前を向いてテキパキとチームの真ん中に居て指揮をとる姿には活気すら感じられる。

小倉先生のリレートークに書かれた先生の宣誓書とも思える1枚のA4の中にこう書かれえいる。

“「・・僕は一流の救急科医になりたかった。今でも、強く、そう思っている。一流と二流の差、それは何だろう」

 確かに知力は人々に安心と安堵を届ける。・・知識人に聞けば、懇切丁寧に正解を教えてくれるから、人々は安心して一歩を踏み出せる。しかしながら、正しいも間違いもわからぬ未開の地に踏み入って未来を模索しようとするとき、その知識人の無力さは、見るに堪えない。未開の地には「正しい」も「間違い」も存在しない。知っているだけでは波乱の人生を生き抜くことは不可能であり、「正誤の判定」だけではよりよい未来への到達など、出来やしないのだ。

 ここで本論に入る。

 一流の人間は希望をもたらし、二流の人間は不安を煽る。一流と二流の差は常にそこにある。一流の医師は、現場で命と必死に向き合う。二流の医療者は、現場の医療に正誤の裁断を下して満足する。一流の人間は、理想を追求し、その生業を眺め、適切なコメントを残して帰る。一流は常に眼光鋭く表舞台に立ち、二流は常にその舞台に立つ人物を批評し、寝床につく。“

 これが書かれたのが2019年4月、イギリス、ケンブリッジでエクモ(Extra-Corporeal Membrane Oxygenation)の勉強をして帰国し、救命救急医療の道を決意したばかりの時である。先生はイギリスからエクモを持ち帰られた。重症患者搬送チームを立ち上げ、医療装置のついた搬送車を開発し、Ecmo Transportを栃木県から発信されたという。コロナは死ぬ病気と思われるが、救う手段はある。欧米、中国と比べてコロナ対策機能が日本は40年遅れていると断言された。

先生の語り口には迷いが無い。フロアからの質問の数々に、分かりやすく、ブレの無い答えが戻ってくる。この質疑応答から見えたもの。それは先生がこの若さで、いや、若いからこそ、理想郷を持ち、医療に携わりながら、世の中、栃木県を栃木県民が平和と安心の未来像を見すえておられること。良い病院は良い街に生まれる。街づくり、それは教育である。人材を育ててこそ、良い街は生まれる。

一流救命医に憧れる先生の文章はまだ続く。

これからも一流を目指し前進し、一流の人間を育てるために、豪快に生きようと思う。これは根性論ではない。根性論は青春時代の産物であり、酒を飲み始めたその時から、根性論は過去の遺物となる。一流の仕事とは、細部にまで目が行き届いた様を言う。一流の仕事、そこには神が宿っている。神は細部に宿るのである。 この春、宇都宮へ旅立つ自分へ。時は今。船出の朝である。

 

最後に先生が強調された言葉。それは病気を治すのは薬ではない。愛情である。人間が病気を治すのである。愛情処方という言葉が強く印象に残った。

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