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2012年4月17日火曜日

三毛子 (12)

三毛子(12)

三章 帰国して多摩での一人暮らし(一九九六~一九九九)

 一九九六年の春、おとうさんは仕事の任期を終えて日本に帰ることになった。お兄さんは高校三年が終わるまであと二か月残っていたので、おとうさんとおかあさんはお兄さんをそれまでニューヨークに残す決心をした。アメリカでは六月が卒業なのでそうせざるを得なかったのだろう。終日は寮にいられても週末は寮から追い出されてしまう。おとさんたちは週末だけお兄さんをあずかってくれるガーディアン探しに苦労した様子だった。結局、おとうさんのオフィスにいた人のご実家の好意で、お兄さんは残ることが出来た。それがきまって、本格的に引っ越しの作業が始まった。

 わたしは本当は手を貸したかったが、おかあさんがいつものペースでどんどん荷物づくりをやり、おとうさんが運送屋を探して来て何だか二人でよくやっていたので、邪魔しないことに決めている。わたしはいつものようにトイレと食事の場所があちこち変わるのだけは注意していた。ダンボールの中にうっかり入れられない様、距離をおいて傍観するだけだった。

 いよいよ出発になる前に、わたしは出国と日本への再入国のため、何だか注射が必要ということで獣医さんのところに連れて行かれた。二年八か月のニューヨーク滞在中、一度もお医者さんに行ったことが無い。本当に久しぶりでつかの間ではあったが、外の空気を吸うことが出来た。あらためてニューヨークの空気を肌で感じた時であった。

 いろんな手続きをクリアし、おにいさんのことも一段落して、おとうさんとおかあさんはアパートを明け渡し、ニューヨークに来てしばらく泊まっていた同じホテルに私も連れて移った。スーツケースがいくつあっただろう?とにかく大荷物と一緒でわたしはその中で迷子になりそうであったが、わたしのトイレと餌はいつも忘れずに置いてくれたので、わたしに限っては何も問題はなかった。

 ところが、ホテルに移った次の朝、おかあさんがベッドから動けない。背中と腰が一寸でも動こうものなら大きな悲鳴をあげる。おとうさんはオフィスに出かけなくてはならず、心配しながらもおかあさんを一人残して出て行った。おかあさんはこのままでは治るはずもなく、うめき声をあげながらもオフィスの秘書にどこか、診てくれるくれところを探してもらうよう頼んでいた。情報は早い。早速針灸をやる人が見つかった。日本人でマンハッタンにいるという。おかあさんはすぐタクシーで向かった。おかあさんが動けなくなったら、河合家はアウトになる。わたしは本当に心配した。 



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