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2012年4月16日月曜日

家族 Sad news coming out one after another

4月14日(土) Sad news coming out one after another

今日は昨日の夏日を思わせるような好天気とはうって変って、朝から雨が降り続いていた。いつもの時間に下に降りていくと既にミーちゃんは起きていてまだ咲き誇るシクラメンの側に置いてある水をぺろぺろ飲んでいた。「ミーちゃん、おはよう!」と朝の挨拶をかわして、わたしは二階から早朝の作業の為持ってきたパソコンを開く。拙著の翻訳を今日は終わらせようと姿勢を正す。第24章「 大阪で母と暮らした最後の一年」を訳し、そのまま「あとがき」、更に「追記」、そして「特別記述」まで一気にやり終えてしまった。「特別記述」は5月31日付けとした。この日は私たちの結婚43年記念日。けじめとしてこの日を設定してみた。翻訳のドラフトはとりあえず保存するに留めておいた。あとでチェックしてローズマリーに送ることにした。

この日のミーちゃんは朝から外に出たがっていた。リビングのガラス戸を一寸開けてやると、出ては見るが外は少々寒く雨なので、すぐ戻ってくる。でも又せがむ。殆ど一日中この繰り返しであった。

一寸息抜きに、高校時代の友人に電話を入れた。3日前に金子みすずさんの詩の朗読を入れたCDの件で手紙を出していたので、その確認の意味だった。10日ほど前に彼女から久しぶりに電話があり、肝臓の検査結果は良好だったと嬉しそうな報告があった。このCDの話もあったのでその件で手紙を出したところであった。そのあとで、携帯にメールも入れておいた。でも、いつもすぐ反応してくれる彼女には珍しく音沙汰が無かったので、こちらから携帯に電話してみた。驚いたことに、携帯に出たのは彼女の御嬢さんだった。「母は今入院していて出られません。階段から落ちて頭を打ってしまいました」。話しぶりからかなり深刻そうだった。大変なことになってしまったと心配しているところへ、別の同窓生から電話が入った。わたしに彼女の入院騒動を知らせてくれたのである。意識不明だという。ますます心配になる。彼女は私の家族史の本を印刷するよう勧めてくれた人であり、いろいろお世話をしてくれた人である。この本が縁で旧友との交流が復活していたのである。

午後に、夫の大学の卒業生が父親と来訪。就職の朗報であった。1時間ばかりおしゃべりしたが、この時のミーちゃんは私にせがむように私の膝にのり、手で私の顔を自分に向けさせて、真剣に甘えた表情になる。このしぐさはこの数か月頻繁に示すようになっていた。何か語りかけているようにも思えた。一方、外に出たい意思表示も今日は頻繁にあった。外に出たり入ったり。夜になって雨は止み、彼女は出たり入ったりを繰り返していたが、ふと気が付くと、彼女の姿が見えなくなった。12時頃、もう寝ようと二階に上がる前に、もう一度外を見たが姿が無かったので、多分家の中に入っているだろうと思ってそのまま戸を閉めて休んだ。

翌日、朝早く起きて探したがやはりいない。もしかして出て行ってしまったのかも。という懸念がよぎって何とも胸が苦しく切なくなっていく。あと一週間で二十歳になるというのに。しかも、まだまだ病気一つせず、身の回りのことは全部自分でやってのけ、時には、ふざけるように走ったりしていたのに。猫の習性でその時が来ると、自分で身を隠すというのは本当だろうか。それにしても、あまりにあっけない顛末である。介護で私たちに苦労をかけたくなかったのだとしたら、こんなにできた猫はいない。今までも彼女から人生哲学を少なからず学んでいるがこれが本当に最期だとしたら彼女は凄い猫だったというしかない。彼女になりかわって書いているAutobiographyはまだ中途である。彼女への鎮魂歌として最後まで書き続ける決心をしている。 (今はまだ、彼女がひょっとしたら戻ってくるかもと待っている。)

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